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フィンガー シークレット «chapter 1»

律子は、綺麗な指の男性が好きだ。

そう、綺麗な指。
節が目立ちすぎず、しなやかな流れと長さがあり、丸みを帯びた長方形の整った爪がそそと控える。
その指をもつ手には、その指にふさわしい甲の厚みと大きさがある。
その指をもつ人には、その指にふさわしい穏やかさと気高さがある。
きっと。

    ・

中学2年生の時、同じクラブのそこそこ仲良しの友達が言った。

「指の綺麗な男の人って、いいよね」

え、指?
男の人の指?
律子の動きが一瞬止まり、伏した目が隠れ泳ぐ。
カッコいいとか、サッカーが得意とか、数学ができるとか、喧嘩が強いとかじゃなくて、指?
視線を戻すと、友達は、当然のように微笑んでいる。
律子も、微笑み返す。

綺麗な指の男の人。

あまりに唐突で新鮮なその言葉は、律子の脳裏に深く刻まれた。

     

律子は、下に6歳はなれた双子の妹がいる、3人姉妹の長女。父は大手の企業でそこそこ出世をしているサラリーマン、母は教育熱心な専業主婦だ。そんな両親に育てられた初子によく見受けられるように、幼い頃から生真面目で、人見知りの強い臆病ものだった。

大学に入り、新しい同級生に囲まれた律子は、緊張の日々を過ごしていた。必修科目の語学教室で、周りの人たちはそれぞれ他愛もない話をしながら交友を深めているけれど、律子はその輪に入れない。ほんのちょっと勇気を出し、隣の子に話しかければいいだけなのに、そのきっかけがうまく掴めないのだ。

ひと月ほどたったある日、学食で、
「もしかして、栗原?」
律子の名が聞こえた。
ハッとして顔を上げると、そこには中学時代の同級生が立っていた。
「え、白川君? ここの大学だったの?」

ふっと力が抜け、思わず笑みがこぼれた。律子の目の前に、気兼ねなく話せる相手がふいに現れたのだから。
中学2年の文化祭のクラス展示の時に一緒の班になり、真面目な律子が1人で発表内容を清書した模造紙を板に貼り付けようとしていた時、白川だけが手伝ってくれたことを思い出す。この人なら平気だ。

ふたりの学部は違っていたけれど、社会学の講義はたまたま一緒の履修だった。白川は律子を見つけると、昔と変わらず親し気に、毎回ひょっこりと隣に座った。

何回目かの講義のとき、律子は、隣の机の上にある白川の手に目がいった。
「あっ」 思わず小さな声が漏れる。
「何?」
「ううん、何でもない」 咄嗟にごまかす。

講義のノートをとるふりをしながら、その手を横目で確認する。
手はひどく厳つかった。甲は広く、指の節もしっかり太い。なかでも親指は特にたくましく、短く厚い爪をしていた。

白川は中学時代すでに硬式テニスで頭角を現していて、その大学を選んだ理由も体育会庭球部が強かったからだという。長くテニスをしていると、こういう手になるのだろうか。
そして、律子は、あの言葉を思い出した。

「指の綺麗な男の人って、いいよね」

白川の指は、決して綺麗ではなかった。だが、この時初めて、律子は男性の指を意識し、同時に白川その人を意識した。
そんな自分に気づいた律子は、うっすらと汗ばみ、授業が終わるなりそそくさと次の教室へ急いだ。背には、白川のもの言いたげな視線を強く感じたのだけれど、振り返ることはできなかった。
校舎の外の木々の緑は鮮やかで、その木陰で律子はほっと息をついた。


その日以降、律子が白川を見る目は変わった。
恋愛感情はない。でも、それまでの異性であることを忘れていた感覚からは、確実に変化した。

学食の2階テラスからは、テニスコートが見渡せる。白川はどんなテニスをするのだろう。律子は、急に白川のテニスを見てみたくなり、放課後テラスに出た。

4面あるコートのうちの一番右端で、白川はちょうどシングルスの試合をしていた。
いつもの穏やかな雰囲気とは違った、真剣な表情。激しくトップスピンをかけた球を次々と打ち込むテニスは、それまでの白川の印象とは全く異なり、ひどく攻撃的だった。

ミスが続いた後のコートチェンジの際には、ゆがんだ顔と眉間の深いしわがテラスからも確認できた。そして、全身全霊で打ったかのように見えたサービスが相手に拾われ、リターンエースになった瞬間、白川はラケットを大きく地面に打ち付け、猛獣のように激しく呻いた。

律子の身体は硬直した。
初めて見る白川の激しい怒り。そこには、律子が嫌悪する、男性の苛立ちの姿があった。

律子の父親もよく苛立ち、切れる。
父のその苛立ちには、人が自分を追い詰め、自分は被害者なのだと訴えているような、傲慢な卑怯さが満ちている。普段の丁寧な言葉遣いとは異なる、汚い言葉が連続の罵り。

律子は、そんな父が怖かった。
身を固くし、こっそりと耳を塞ぎ、怒涛の怒りが収まるのをじっと待つ。目をきつく閉じ、心のなかで念じ、叫ぶ。
「やめてやめてやめて、お父さん大嫌い」

そういえば、白川の指は父の指に似ているな、と急に思った。同時に、白川への恐怖が沸き上がった。ぞくっとした。

白川の手と指の様子は、表向きの印象とは一致せず、彼の本質に近いのではないか?と感じた律子は、その後、徐々に白川と距離をおくようになった。
白川の自分に対する特別な好意に気づいてもいた。だけれども、それを受け入れることは、もう到底できなかった。

男の指と手には、その男の内面が現われる。
律子は、そう思うようになった。 

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