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フィンガー シークレット «chapter 6»

4月になり、奏子と響子は大学生になった。
2人の進んだ大学は別々で、初めてお互いを意識しない学生生活。以前、律子のところに相談に来た時はちょっと元気のなかった奏子も、すっかり明るくなり、毎日が楽しそうだ。

ハルと最初のデートをしてからひと月。律子の25回目の誕生日が来た。同じ日比谷のレストランで食事をし、ハルはプレゼントをくれた。

「指輪はサイズがわからないから、来年は一緒に見に行こうな」

あっさりとしたハルの言葉や態度が、律子には気楽だ。シンプルな包装の箱の中には、キラリと光る星がついた金色のペンダントが入っている。
律子にはそのペンダントに、ハルの体温を感じた。ハルが自分を思って選んでくれたもの。つけているだけで、きっとハルを感じられる。片時も離したくないと思った。

でもそれは無理。このままつけて家に帰ったら、あの目ざとい響子が見つけないわけがない。
「お姉ちゃん、もしかしてデートだったの?すご~い、やったね!」
そして、とんでもないことが起こる。
家の玄関で、そっと律子はペンダントを外す。しばらくは仕方ない、と割り切った。

律子の生きる「TIME」は「ハル」になった。ハルが律子の時を刻む。

平日の朝、昼、夕方、社内のそれほど遠くない場所にハルの存在を感じ、心が躍る。週末のテニスコートでは、瞳も踊る。
四季折々の花が咲くコートの周りでは、桜が終わり、つつじが咲き、藤も咲く。そして、朝顔、向日葵、サルビア、曼殊沙華。
9月終わりは、ハルの誕生日。
10月には、2人のミックスダブルス公式戦。

季節の移ろいに伴い、ハルのことにも詳しくなる。
ハルの2人の妹は、上が律子よりひとつ下、下はみっつ下だ。ハルの何気ない気遣い、優しさ、時に厳しいところなどは、やっぱりお兄ちゃん。律子は、そんなハルについ甘えてしまう。

家は車の部品工場をやっている。自営で両親は常に忙しく、でもハルの幼い頃は決して裕福ではなかったと。ただ、ハルが高校生になった頃から少しずつ事業も安定し、だから大学にも行けたんだ、とハルは笑って話した。

「うちは学歴も大したことないし、事業も不安定なところもある。家族はみんなお人よしで、ちょっと抜けたところもあるけれど、悪い人たちじゃないと思うよ。下の妹なんて、泣き虫で根性なしで、すんげえバカだから。高校生になっても、すぐうえんうえん泣いてたし。だから短大に受かった時は、家じゅうが驚いたよ」

律子は、ハルのそんな話が大好きだ。そして、ハルの家族が羨ましかった。

「実家の近くにさ、大森山公園ってところがあるんだけど、いつか一緒に行こうな。動物園なかなか面白いよ。あとはよく通った図書館もある。居心地最高なんだ」

ハル。一緒に行きたいよ、すごくすごく。律子は嬉しい気持ちでいっぱいなはずなのに、何故かちょっとだけ悲しくなった。


落ち葉の季節も、クリスマスも、新年も過ぎ、春、コートの脇のオオイヌノフグリを見て、ハルと一緒に笑い合ううちに4月。
ハルと一緒の2回目の誕生日がきた。

約束通り、指輪のプレゼントを買いに一緒にお店に行く。律子はこの1年考えていた。指輪はたとえ右手にするのであっても、薬指のものはやめようと。
ハルの指は律子にとって特別だ。そのハルと、いつの日にか同じ指輪を同じ薬指にはめたかった。律子の指は、ハルの指の美しさには到底かなわない。だけれども、一緒の指輪をしたら、ハルの指が自分の指になるような気がしたのだ。同時に、ハルその人の全部が、自分だけの宝物になるように思えた。

「ハル。今はね、小指にはめる指輪が欲しい」

「へえ、そんなのもあるんだ。いいよ、りっちゃんが欲しいもので」

せっかくハルに買ってもらうならば、去年もらったペンダントに似ている星のついた指輪がいいなと律子は思う。
店員さんに探してもらい、小さな星がいみっつ並んでついているピンキーリングを選んだ。律子の小さな小指に、ハルにもらった小さな指輪が光った。

律子は、嬉しい時、悲しい時、寂しい時、いつもハルの指輪をなでた。ハルの指に触れている気持ちにちょっとだけなれ、気持ちが落ち着く。


ハルと律子が付き合い始めてから1年半がたち、2回目の秋が来た。日々を重ねるごとに、律子のハルを思う気持ちは深くなった。

好きな人をまるまる好きになること。そして、その気持ちをきちんと相手が受け止めてくれること。それは本当に幸せなことだ。
ふとした時に、律子は自然に笑みを浮かべている自分に気づき驚く。

朝を迎え、目覚めた直後、自分のうちなる世界にハルの存在を感じる。ああ、今日もハルは私の中にいてくれる。生きていることを感じる。力が湧いてくる。ちょっとぐらいの苦しみなどは、ハルの存在がかき消してくれた。

だが、時に律子には例えようのないほどの、不気味な深い悲しみが湧き起こることもあった。
それは突然やってくる。通勤電車の中でつり革につかまった瞬間だったり、自動販売機で飲み物を買うために100円玉を入れた時のこともある。晴れた日に、街路樹が陽の光を受けて輝いているのを見た瞬間もあった。

「何でこんな悲しい気持ちになるんだろう」
律子は自分に問いかける。

違う。本当は、知っている。自分でただ蓋をしているだけ。怖いの、怖いの、怖いの。開けたくないの、その蓋を。

ある夜、律子はベッドに入り、普段通りに目を閉じた。いつもなら、すうと眠りに落ちる律子だったが、その夜は違った。

閉じた瞳の中に、ハルの顔が浮かぶ。
ふっくらとした唇、そこから覗く前歯、引っ張ると柔らかい頬の皮、髭のそれほど濃くないちょっと尖った顎。左側を歩いている時に見える横顔。なだらかな曲線の優しい鼻、目尻による小さい皺。
どれもこれも、ハルそのものだ。
大好きな大好きなハル。

瞼の中のハルは、最初はいつものように笑っていた。
だけれども、横を向き、もう一度律子の方を向いた時、ハルの笑顔は消えていた。苦しそうな、寂しそうな、ハルの顔。

「どうしてそんな顔をしているの?ハル」

突然、律子の目の奥が熱くなった。
マグマが頭じゅうに広がる。
のどが締め付けられる。
溶岩が瞳に流れ込む。
締め付けは「うっうっ」という小さな嗚咽に変わった。

泣きそう、泣きそう、なぜ?どうして?

抑えようにも抑えきれなかった。溢れた。
もう、とめどなくどめどなく溢れた。
ハルがいて、こんなに幸せななはずなのに、どうして涙が出るの?
ハルはどうして、悲しそうな顔をしているの?

わかっているよ、わかっているんだ本当は。
涙は全てを知っている。
いいよ、泣いてしまえ。このまま泣けるだけ泣いてしまえ。

陽が昇ったら、いつもの自分に戻るため。
いつもの顔で1日を過ごすため。
誰にも自分の真実を気づかれぬため。

(2721文字)


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