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フィンガー シークレット «chapter 4»

ハル。
名前は、柳晴彦。
一昨年の8月半ばに、地方の支店から本社の経理部に転勤になってきた人だった。当時入社5年目、律子の4年先輩だ。

廊下で突然「よう、りっちゃん」と言われた時に、律子が誰なのかわからなかったのは当然だったかもしれない。柳の本社での勤務はまだ半月ほどだったのだから。

席にもどった律子は、馴れ馴れしい男性が誰だったかをはっきりと思い出した。

「テニス部の柳さん。この前の歓迎会の人だ」

律子は入社後、所属する総務部の先輩に誘われ硬式テニス部に入った。部員は同期の数名を除いては、全員律子より年上。もう定年間近な大先輩も多くいて、間もなく「りっちゃん」と呼ばれるようになった。

「だからって、初めて話す時に、りっちゃんなんて呼ぶ?」
怖がりな律子は、柳のことを必要以上に警戒した。

その後も、律子は社内で柳によく声をかけられた。特に深い話をされるわけでは決してなかったが、その度に律子はビクッと身体が縮み、そしてそっけなく会釈だけで終わらせた。

秋も深まってきたころのことである。
入社して半年が過ぎ、律子も自分の仕事には随分慣れ、また、例の密かなる指の観察も続いていた。

各部から提出されつつある、今週の役員会資料のリスト作りに律子が没頭している時だった。左側から律子の手元に、1枚の白い紙が挟まっているバインダーが差し出された。
律子は紙を見る。バインダーを見る。そしてそれを持つ手を見る。

そこに見えた親指に、律子は息をのんだ。

やや丸み帯びた長方形の爪、滑らかな第1関節からの細く引き締まった第2関節までの流れ。なんて美しい指なのだろう。

そう思った時に、声が聞こえてきた。

「りっちゃん、忙しいところ悪いんだけど、これ至急の回覧。テニス部の秋山部長のお母さんが亡くなったそうで、部内の有志を募ってお香典をということらしい。賛同の気持ちがあるなら、ここに名前を書いて欲しいんだ。
1人1000円。集金は後から。りっちゃんは新入社員だから、無理はしなくていいけどね」

柳だった。
声を聞き、顔を見上げて、律子は我に返った。紙にはすでに柳の名前は書かれている。少し小ぶりな丁寧な文字だった。つられて律子もそこに名前を書く。自分の手、指、書く文字に視線を感じる。少しばかりの緊張。「子」の横棒が少し揺れる。
こっそりとひと呼吸、ペンを置き、立ち上がり柳に向かい合う。

「総務部、私が回しましょうか?」

にこりと微笑み柳は言った。
「ありがとう。この階は俺が回ることにしたんだ。その方が手っ取り早いからね。じゃあまた」

律子はそのまま、初めて柳の去っていく後ろ姿をしっかりと見つめた。
均整の取れた男らしい後ろ姿と歩き方。柳のあの指と同じ印象の姿が、そこにはあった。律子の胸の高鳴りは、しばらく治まらなかった。

柳の指に目を奪われたその日から、律子の柳に対する思いは一変した。会社でもコートでも、その姿を目で追うようになった。

それまでは目にも入らなかった柳の姿が、まるでほのかな光に包まれているかのように、その場から浮き上がる。

多くの社員が一斉に集まる、お昼の社員食堂。柳を律子は簡単に見つけることができた。恐らく一緒にいるのは、同じ課の上司だろうが、柳はいつも打ち解けた様子で会話をしている。
定食の列に並んでいる時には、柳も軽く食堂全体を見まわしている。柳の視線が律子の視線のなかに入り、重なると、柳は「おっ」とばかりに手を挙げ軽く頷いてくれる。律子はドキッと胸が鳴るのだけれど、悟られないように軽く会釈をし、視線を外す。本当はずっと見ていたいのに。

よく柳に声をかけられた廊下。そこに柳の姿はないものかと、律子は視線を上げて歩くようになった。
たまに書類を届ける経理部。柳の席にまず目を向け、そこに姿を見つけると嬉しくなった。

自分の席でのデスクワークでも、律子は入口が気になるようになった。日に1度くらいは、柳が総務部に足を運ぶこともわかった。

週末に一応は行っていた程度だったテニス部の練習。それもまた、新鮮なそして刺激的な時間となった。
そして、それまでも耳にしていたはずだけれど、ちっとも記憶に残っていなかったことが次々と明らかになる。

柳は、会社のテニスコートの敷地内にある独身寮に住んでいること。そのため、週末のテニス部の練習には、休日出勤でもない限りは毎週出ていること。体育会のテニス部出身で、転勤後早々に実業団公式戦のメンバーになっていること。気さくでフットワークのいい柳は、入部してまだ数か月であるのに、すでに部内の庶務業務を担っていること。部内では、ハルさんと呼ばれていること。

驚くことばかりだった。

コートでは、会社でいるよりも近くの距離で柳を見ることができる。今では、柳の10本の指が間近にあった。

律子は、やはり柳の指が好きだ。関節の形と肉付きのバランスが絶妙、長さもいい。動きもしなやかだ。男らしいけれど淡泊な感じと同時に、実は繊細な内面も持ち合わせていることが想像できた。

ふとした時に、律子は吸い込まれるように柳の指を見つめた。そして、そっとそれらに触れてみたいという衝動に駆られる。

間もなく、律子ははっと我に返り、そんな自分に驚いてしまうのだった。

柳のテニスは、美しい。
力で押すテニスではなく、一球一球を丁寧に打つ流れるような打ち方。
球を打つ前の大きなテイクバックから、球を打った後の長いフォロースルー、その一連の動きは見事で、大きな鶴がおおらかに大空を飛んでいるかのようだった。

パァーン、パァーンとエンドラインぎりぎりに打ち合う柳のストロークを見ていると、こんなに気持ちよく球を打てたら勝ち負けなんてどうでもいいかも、と思ってしまう律子だった。
それほどまでに、柳のテニスはよかった。

ふと同級生の白川のテニスのことを思い出す。2人のテニスは対照的だ。

威力のあるサービス、ドライブを強くかけるフォアハンドストローク、力で前に押す両手のバックハンドストローク。
前後の移動が目立つ白川。

柔らかなしなるようなサービス、ラインぎりぎりを狙う大きなフォアハンドストローク、スライスをかけた片手バックハンドストローク。
左右のステップが目立つ柳。

この2人が試合をしたらどちらが勝つのだろうか。律子はひとり面白がった。

「頭に血がのぼっちゃったら、白川君が負けるわね、きっと」
律子は思った。
そして肝心なこと。2人の指と手も対照的だった。

「私、柳さんのことが好きなんだ」
律子は確信した。

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