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フィンガー シークレット «chapter 7»

銀杏の葉の色が変わりだした頃、律子はハルに結婚を申し込まれた。

律子は震えた。
嬉しさに、愛しさに、胸が震えた。自分のような、ちっぽけな人間をそのまま全部受け入れてくれ、これから先もずっと寄り添ってくれる、その決心をしてくれたハルへの感謝の気持ちで震えた。

ハルと一緒なら、律子の生活は安堵と微笑みに満ちた日常になる。律子には確信があった。

自分の人生を考えろ、律子。
勇気をもって一歩を踏み出せ。
今までの自分から卒業するんだ。
それが大人になるということだ。
どこかから声が聞こえたような気がした。

律子はハルに伝えた。
結婚の話はとても嬉しい。もちろん自分もそれを望んでいる。だけれども、必ず父はこの結婚に反対するだろう。そして、説得は非常に難しい。父はそういう人だし、母も自分の味方には決してならない人だ。だけれども、ハルと一緒の人生を歩みたい決心は自分も変えられない。だから、勇気をもって両親に挑むつもりでいる、と。

ハルは、律子1人にその大任を負わせることを心配した。できれば、共に話し合いたいと言ってくれた。

「父はそういう人じゃないの。ありがとうハル。とにかく私1人で頑張ってみる」
律子の決心は固かった。


週末の土曜日を、律子は待った。

律子の父には、独特な雰囲気がある。激しい人ではない。普段の話し方は落ち着いていて穏やかだ。学校行事への参加も悪くなく、律子の友達受けも上々。素敵なお父さんとお母さんでいいわね、とよく言われたものだ。だけれども、家で律子は父といると無意識に緊張した。

まだひどく幼い頃、父と遊んで欲しくて父の帰りを待ちわび、父の帰宅合図のベルが鳴るなり玄関に走り、父の胸に飛び込んだことがあった。

まるでスローモーション動画のように、今でも蘇る。

父の見開いた目。
気にせず律子は父の首にしがみつき、律子の顔が父の顔に触れる。

その瞬間の「チッ」

律子は固まった。

律子の身体は、ずるずると落ちる。もう父の顔は見られない。
「私はとってもいけないことをしちゃったんだ。お父さんは私のことが嫌いなんだ」
父には決して甘えてはいけないのだと、悟った。

あれから20数年、律子にとっての父は全く変わっていない。
父には、精神の奥深いところに、ひどく張り方のきつい一本の弦がきっとあるのだ。何かの拍子に、誰かがその弦に触れてしまうと、父の様子は一変する。
舌打ちは、その変化の入口だ。父の変化の一部始終を、律子は実際に見届けたことはない。だが、母が父を異様なまでに恐れていることは肌で感じている。

だから、これまで律子は、その弦を刺激しないようにと、父の前ではできるだけ無表情を装い、喜怒哀楽を抑えてきた。自分の心を守るために。

その週の土曜日は、珍しく家族全員が食卓を囲んだ。響子は相変わらず、賑やかに大学での出来事の話をしていた。母と奏子は笑い、父はまるで興味を持たず、ビールを飲みながらテレビを眺めていた。

「少しは私の話聞いてよね、お父さん」
響子が口を尖らせてながら言った。

響子はさすがだ。いつも単刀直入に話をする。例え相手が父であっても、何の躊躇もない。
父も、響子のひと言は耳に入ったのだろう、ちらりと響子を見て苦笑いをした。

そう、昔からこの家族はそうだ。律子は父と母の様子を伺い、奏子は父の様子を伺い、そして響子は何も気にしない。母は決して父に逆らわない。


食事がすっかりと終わり、ごちそうさまと父が席を立った。母が立ち、奏子も響子も立った。

「すみません、お父さんお母さん、お話したいことがあります」
律子は願い出た。

父が律子を見た。
母は父を見た。
奏子も響子も律子を見た。

「なんだ律子」

「カナちゃんも、キョウちゃんも一緒に聞いていて欲しいんだけど」

全員が再び席についた。
しばしの沈黙の後、律子は息を吸って真っすぐに父を見つめた。

「お父さん、お母さん、私には好きな人がいます。結婚したいと思っています」

「なに?」

低い声のひと言と共に、父の眉がぴくりと動いた。奏子の息を飲む音が聞こえる。

「律子。お前はこの家での自分の立場をわかっているよな?」

父の声は冷めきっていた。だが、今は父に屈するわけにはいかない。律子は、父の目を見ながら、ハルの経歴、家庭環境、人柄を一気に話す。

「律子は、その男がお前とこの家にふさわしいと本当に思っているのか」
父の声が震える。

「柳さんは長男です。その点では、この家にふさわしくないと思います。ですが、私は、唯一、柳さんの前でだけ私らしくいられるのです。私にとっては、かけがえのない大切な人です」

「それは、律子、お前にもふさわしくないということだ。もうこれ以上、話しを、聞く、必要は、ない」

父の中の弦がピンと張った。
ギインと、その弦が爪弾かれたような気がした。
父の顔が徐々に赤黒くなる。節の太い指に力が蓄えられる。強張る。
その父の腕を母が掴んだ。母の顔は真っ青だった。
「いつもいつもお前はっ」思い切り父は母を振り切り、跳ね飛ばし、部屋を出ていく。母は起き上がり、それでも父を追いかける。

律子は、これ以上は無理だとわかった。


「お姉ちゃん。お姉ちゃんは、最初に生まれたんだよ。早い者勝ちで、走っちゃっていいんだよ。そうなないとお姉ちゃんはいつまでも幸せになれないよ」
響子が、律子の部屋まで言いに来た。

「ありがとうキョウちゃん」
だけれども、私が私に与えられた責任を果たさないと、あなたたちのどちらかがその重荷を背負ってしまうのよ。
律子は、心の中でそう言って微笑んだ。

「お姉ちゃんって、ばっかじゃない」

響子は、口を尖らせ眉を寄せて律子を睨んだ。目が赤くなり出し、くるりと後ろを向いて走り出た。
扉が大きな音をたてて閉まった。

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