見出し画像

フィンガー シークレット «chapter 3»

響子の未来のボーイフレンドの話題が出て数日たったある夜、奏子が律子の部屋に来た。

「お姉ちゃん、今ちょっといいかな?」


6歳離れの双子の妹たちは、律子にとっては純粋にかわいい存在だ。
両親と3人暮らしだった日々のなかで2人の妹ができ、家は突然賑やかになった。律子は嬉しくて仕方がない。
ミルクをあげるにも、おむつを取り替えるにも、沐浴をさせるにも、母は一度に2人を相手にはできず、そんな母の傍にいる律子は、自ら進んで妹たちの世話をした。

まだ小学1年生だったけれど、
「なんてちっちゃなお手々とあんよ。ええっ、おしりもこんなにちっちゃい。うわあ、ふわふわだあ」
律子は驚く。
そして、力の入れ方を少しでも間違えたら壊われてしまうのではないかと心配で、いつもいつも丁寧に妹たちを扱った。

そのように妹たちのお世話をしている時の律子に対しては、普段は箸の上げ下ろしにもうるさいあの父もあの母も、いたって穏やかだった。
律子は2人といる時が、最も居心地のよい時間となった。だから、赤ちゃん時代が終わった後も変わらず可愛がり、喧嘩をする気にもならなかった。


「カナちゃん、もちろんいいわよ。何かあった?」

「ねえ、お姉ちゃんって男の人のこと好きになったことある?」

奏子の質問に、律子はギクリとする。
いったいどういう意図だろう。
家での自分の行動に何か不自然なところでもあったかしらと不安になりつつ、平静を装ってはぐらかす。

「あら、何かと思えばすごい質問ね。どうしたの?失恋でもしちゃった?」

「失恋なんてしてないよ、だって告白もしてないんだから。ねえ、お姉ちゃんならどう思う?」と話し出す奏子。

ひとことひとこと言葉を選びながらの内容はこうだ。
奏子の妹の響子は、男子の前でも自然に振舞えて、まるで仲良しの女子との会話のようにいつも楽しそう。でも、奏子は響子みたいにはできない。男子の前だと緊張してしまって自然に話せない、振舞えない。結局女子ばかりと一緒にいる。だから、響子はとてももてるけれど、自分は声をかけられたことすらない。
本当は、いいなって思っている男子がいるけれど、響子のように無邪気に一途に行動は起こせないし、好きなんだってことも誰にも言えない。

ここまで聞いて、律子はそっと安堵する。さっきの不安は、早とちりだったんだわと。

「お姉ちゃんさ、この前変だったじゃない?急に涙なんて流して。びっくりしたよ。でもね、あの時思ったんだ。お姉ちゃんも私と一緒で、キョウちゃんみたいに大胆にはできないんだなって。だからキョウちゃんの話聞いていて、悲しくなっちゃったんだなって」

あの時の律子の急な涙の理由を、奏子は勝手に思い違いをしてくれていた。ああ、これもよかった。母と自分との難しい関係など、妹たちは知らない方がいいのだから。

急に気楽になった律子は話し出す。
「カナちゃん、キョウちゃんみたいな女の子はめったにいないんじゃないかな。あの子は特別だと思うよ。
私はカナちゃんの気持ちよくわかるよ。正直になりすぎて傷つくのは怖いもんね。そんな感じでしょ?
大丈夫、カナちゃん十分かわいいから、じっくりゆっくりでもそのうち上手くいくって。案外どこかで誰かが、カナちゃんのこといいなって思っているかもよ」

「そっか~、やっぱりお姉ちゃんもそうなんだ、よかった。うん、傷つくのは怖いよ。
こんなことキョウちゃんには話せない。バッカじゃないって言われちゃう。わかってくれてありがとね。」


奏子が部屋を出て行った後、律子は大きく息をついた。奏子に男性を好きになったことがあるかを聞かれた瞬間、律子は身が縮んだ。
ちょっと冷静になって考えれば、奏子が訊いた「好き」にはそう深い意味はなかっただろう。真面目な律子にだって「あら素敵」な恋心は高校生のころにもあった。その気持ちについてを、奏子に話せばよかっただけかもしれない。でも、実際の律子は動揺を隠すの必死になってしまった。

もしもこの質問をしたのが、奏子でなく響子だったら、律子の焦りは見破られていたに違いない。そして、その変化の理由を躊躇なく手加減なく問い詰めただろう。そして、そのことはきっと間もなく母の耳に入る。
この前見た、母と響子の打ち解けた仲の良さを考えれば容易に想像できる。
「お母さん、聞いて、お姉ちゃんに好きな人がいるんだって。どんな人だろう、聞いてみようよ」こんな感じに。
その時の母の顔を想像するだけで、律子は背筋が凍った。母の背後の父の顔も浮かぶ。

律子は改めて心細くなった。
母の耳に自分の恋愛関係についての情報が入ることを、今の段階では絶対に避けたかった。自分自身の真実を、律子は何が何でも守りたかったのだ。

「大丈夫。カナちゃんだったんだから」
律子は自分に言い聞かせた。

     

律子には、生涯をかけて愛したいと思う人がいた。
誰にも秘密の恋人、ハル。

ハルの最初の印象は、決して良くない。

「よお、りっちゃん。ここの階だったのか。同じなんだな」

律子が所属する総務部がある階の廊下で、すれ違う男性社員に声をかけられた。一昨年の確か9月のことだった。

りっちゃん?私のこと?
そんな呼ばれ方なんて会社に入ってからされたことはない。あまりの馴れ馴れしさに、さすがの律子もムッとした。
いったい誰だろう?

そこに立っていた人には覚えがない。考える。

「ああ」

律子の口から出てきたのはそれだけだった。

「俺は突き当たり。となると会社でもたまには会えるわけだな。
じゃあまた」

律子の不愛想な態度を気に掛ける様子もなく、軽く手を挙げ再び廊下を歩いて行った。

(2265文字)


いただいたサポートは、次回「ピリカグランプリ」に充当させていただきます。宜しくお願いいたします。