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フィンガー シークレット «chapter 11»

4月、律子は週末に新幹線に乗った。降りたのは、秋田駅。まだ雪が隅に残る駅前のロータリからバスに乗る。向かう先は、星が丘という停留所。

ハルから、その名を聞いた時の記憶は今だ鮮明だ。律子はその美しい響きから、物語の中の地名のように感じた。

「本当にあるのさ。だって俺が育った町だから」
ハルは言った。

星が丘。ハルは、その町で多くの時間を過ごした。楽しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいこと、多くを経験し吸収した。そこにハルの原点がある。律子はいつか行ってみたいと思った。もちろん、ハルと一緒に。

それはもう叶わない。だけれども今、律子はその停留所に降り立った。まだ冷たい春の空気が律子の全身を駆け抜ける。少しだけ迷いの残っていた気持ちが、飛んだ。律子はピンと背筋を伸ばした。

停留所を背に、東に向かって歩き出す。ハルの言葉を思い出す。

「広い道沿いを真っすぐ歩けば大森山公園の端に着く。そこを入ってひとつ目の入口を奥に進んだところに図書館があるんだ。よく行ったところさ。家からは真っすぐ行けば着いたしね」
ハルの両親は、工場の仕事で忙しかった。だからよく妹たちを連れて図書館に行ったのだと。
「遊ぶには事欠かない場所だったよ」

空は青く澄んでいた。その青さの下に木々の茂みが見えた。あれが大森山公園だろう。
徐々に遠くにあった緑のかたまりが近づき、そして、公園の端っこに着いた。右に曲がる。左手にはうっとうとした木々、右手には住宅街が広がっていた。

ああ、ここが、ハルの育った場所なんだ。
律子は軽く目を閉じ、風を感じる。

ハルとのことはもう終わったこと。だけれども律子の心は踊った。ただの道のアスファルトさえ、明るい陽射しを受けてキラキラと輝き、歩く足取りまで軽やかになる。
左手の木々に切れ目が見え、入口を確認、中に入る。柔らかな土の感触が足に伝わった。
「きっとここでハルは、妹さんたちと一緒に遊んだのね」
遠くには茶色の煉瓦の建物。あれが図書館だろう。
少年時代のハルを想像する。口元が自然と緩む。
足元に目を移して歩き出すと、律子の目にふと入った花があった。

少しだけ小高く盛られた土の上に生えているのは、あのオオイヌノフグリ。律子は、久しぶりにみつけたその花をじっと見つめる。

小さな薄紫の花びら。繊細なその姿が愛おしい。そのひとつに、そっと指で触れてみる。花びらが小さく弾む。隣の花にも、その隣の花にも触れてみる。
花びらは、律子の胸の鼓動のように震える。
花の群を手のひらで包んだ。
生まれたての赤子を扱うように、優しく包んだ。
夢中で包んだ。

そう、この花は、ハルと自分の花だ。あのテニスコートの脇で、ハルと一緒に眺めた私たちの花なんだ。秋田の春は、東京の春より遅い。なのに、この花は私を迎えてくれた。
ここに来る前に、律子の心に育ったあの花芽の硬い塊が、きっとこの花になったのだ。この花は、私を待っていてくれたんだ。そんな気がした。

開けてはいけないと自分に言い聞かせ続けた扉に、律子は手をかける。そっとノブを回す。扉が開く。
ハルの匂いがした。扉の向こうには、ハルの後ろ姿。

ハル。逢いたい、逢いたい、本物のハルに逢いたい。
あなたの笑顔をもう一度見たい。声を聴きたい。

ハルへのとめどない思いが、一気に溢れた。律子は、自分の鎖を全て解いた。

やはり一歩を踏み出そう。そうでなければ、自分は一生後悔する。
気持ちを決めた律子は、くるりと向きを変えた。木々の茂る公園の端から、住宅街の方向を見た。
土の道からアスファルトの道路へと足を進める。図書館へ通じる一本道を逆に進む。ハルの家は、律子の目の前の道沿いにあるに違いない。

会社を退職してから、しばらくして届いたテニス部の会報誌。そこには、ハルが秋田支店に移った知らせが載っていた。そう、ハルもまた、あのオフィスを去ったのだ。そして、恐らくこの星が丘で暮らしている。

律子は、左右の家の表札を気にしながら、ゆっくりと歩く。気持ちはとても落ち着いていた。
ひとつひとつの家の区画は広く、大きな家が多い。それほど裕福ではない、と言っていたハルの言葉の印象とは違った豊な街並みだった。ゆとりのある道幅、さえぎるものがなく見渡せる青い空、緩やかに吹き抜ける風。きっとハルは、ここで穏やかな子供時代を過ごしたのだろう。

「素敵な街ね、ハル」
律子は小さく呟いた。

いくつかの家を過ぎた後、シンプルな白壁、その中央に数段上る階段のある家に通りかかる。律子は少し目を上げ、表札を見る。そこには「柳」とあった。

ここがハルの家だ。
この数か月、迷い続けたすえ、律子はやっとここに辿り着いた。家を見上げそっと目を閉じる。息を整える。

「どう?律子。何かを感じる?」自らの心に静かに問いかける。

その時だった、律子の中で突然ざわめきが起こった。急激に脈が上がるのがわかった。
「なに?」例えようのないその感覚に、律子は戸惑う。

ここにいては、いけない。
ここは、私が留まるべき場所、ではない。

耐えられぬほどの違和感に、律子は止めていた足を再び動かした。家を見つけるまでの、あの穏やかな足取りとは違い、律子は逃げるように、歩を前に進めた。

足が僅かにもたつく。産毛が逆立つ。肌がヒリヒリする。

10数メートルも歩いたろうか。ふと律子は、目を正面に移した。遠くからこちらに向かって歩く人が視界に入り、身が強張る。別に悪いことをしているわけではない。でも、律子の中には、罪悪感に近いものが湧き出てきていた。

少しずつ近づく人の姿に目が止まる。両手にはスーパーの袋だろうか、細い腕には重たそうだ。食事の材料の買い出しかしら、と律子は思った。

その人の輪郭が次第にはっきりとする。見えていなかった顔も、段々と見分けがつくようになった。目を凝らす。その瞬間、律子の記憶の領域で、目に映った顔が反応した。

「誰?あの顔は」
律子の手にどっと汗がにじんだ。
「知ってる、あの人」
警戒音が高らかに鳴った。

律子は歩みを緩める。顔を伏せ、できるだけ不自然でないように向きを変え、来た道を戻る。

来るな、来るな、来るな。
もう一歩でもこちらに来るな。
私の方に近づくな。
ほら、あなたの家はこっちじゃないわ。
道を間違えたの?それとも友人の家が近いの?
そんなわけないわね、その袋の中身じゃ。

ハルの家の前を通り過ぎる。
律子の身体が震える。
逃げてしまいたい、この状況から。
だけれども、確かめたい、何が起こるのか。起こらないのか。
やがて、かすかに感じていた背後の歩みの気配が右に傾いた。
そして、消えた。

耐えきれず後ろを振り向く。
その人はハルの家の玄関を上っていた。
そして、律子は、その人の名前を思い出した。顔かたち、姿、全てが記憶の中に残っていた。
あれは、会計課の日下部さん。ハルと同期の日下部さん。

すうと、身体じゅうの力が抜けた。アスファルトの、小さな石のかけらの輝きが再び眩しかった。その光は、どんどん滲み、視界から流れ出した。

「遅かったね、ハル。私は」

(2832文字)

最終話へ続く。

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