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フィンガー シークレット «chapter 2»

旧友の白川と疎遠になったのち、律子は2人の女友達に恵まれた。
広い大学、多くの学生、そのなかで無事に類は友を呼んだのだった。自分が心地よく息のできる陣地を確保できた律子は、その後は特に大きな事件もなく卒業を迎える。

問題だったのは就職についてだ。
当時の女子大生の就職は、なかなか大変な時期だった。できたての男女雇用機会均等法に社会はまだ右往左往していて、4年制の大学を卒業する女子を企業側もどう雇えばいいのか迷っているように見えた。

短期大学の女子学生は、従来通りの事務職扱いができるので、どこの企業でもひっぱりだこ。だが、4年制大学の女子学生は、総合職として男子と同等、当然転勤もあるという位置づけが設定されたばかり。だが、その職を用意できる勇気を早々に持った革新的な企業は、日本ではまだ一握りの数だったのだろう。採用枠は極端に少なかった。

そんななか、律子は自分の将来を考えはするものの、いったい何がしたいのか、何を目的として生きていきたいのか、その答えを自分では見つけられない。
幼い頃から父と母のご機嫌を常に伺い、「家の良き長女の役割を滞りなく果たす」ということを一番の使命と思って過ごしてきた律子には、自分のための自分の将来を自分の力で考えるということができないのだ。

結局、「女は女らしく男の補助役の仕事で結構」との考えを強く主張する父親の縁故をもって、律子は短大卒並みの扱いの普通のOLとなった。
大学卒業という年齢に達しても、この父の決定に素直に従う自分を律子は恥じ、仲良しの2人の友人にさえ正直な経緯を話せない。でも、実のところは律子はほっともしていた。男性と同等扱いの総合職としての雇い入れには勇気がなかったから、自分はこれでいいんだ、と割り切った。

4月になり会社生活が始まる。
父親の勤める会社の同族会社で社風も穏やか、しかも配属先は総務部総務課といういたって保守的なところになり、律子は胸をなでおろす。仕事内容は事務仕事、多くは社内的な書類の作成と処理。雑多ではあったけれど、この表立つことのない地道な業務内容は、律子の得意分野でもあり、一通りのルーティンワークを覚え終わった夏前には、余裕もできてきた。

そんな律子には、ちょっとした秘密の愉しみができた。
それは「指の観察」だ。

就業時間の多くをデスクワークで過ごす律子は、社員の姿かたち顔よりも、自分のデスクの未決箱のなかに書類を入れていく手の方に目がいく。銀行や、旅行会社や、販売のようなサービス業ではないから、とりたててにっこりと微笑んで相手の顔を確認する必要もない。

日々律子は、興味深い指が未決箱にのびるのを視界の際で察知すると、その指の持ち主を何気なく確認する。

指が太いだけでなく色も艶も悪く、爪が分厚い指の持ち主は、疲れた様子の無気力さ漂う人だったり、肌が薄く白く、爪まわりがささくれ立っている指の持ち主は、寝ぐせが残った後頭部をし、神経質さが伝わる小股な歩き方だったりした。
きちんと揃えられて重なっている書類の上に、なかば投げるように乱暴に書類を置く指は、際立ってしっかりとした節に、何かの皮膚炎かと思うわれる赤い斑点。ああ、またこの人かと小さくため息が出る。顔も姿も確認の必要すらない。
蠟燭のように青白く、細く、動きがまるでピアノの鍵盤をなでるような滑らかさの指の持ち主を見上げた時は、思わず吹き出しそうになった。立つ足も、去っていく後ろ姿も、しんなりすなりとしていて余韻が残る。動きも体格も、指そのものの印象だった。

新入社員の女子が持つ愉しみとしては、かなり風変り。そして、そのことを律子自身も自覚をしていたが、誰に話すわけでもない自分だけの絶対的な秘密なのだから平気だった。
そして、この日々の観察は、律子の男性を見る目を遅ればせながらも養っていった。
     

家における律子の立場は、就職をしたからといって特別変化は起こらなかった。3人姉妹の長女。小学校に上がる前までは、一人っ子状態で両親の目が一手に集中し、気が付けば、いつもそこに父と母の束縛があった。

生まれてきた妹たちは、次女、三女というだけではなく、双子という一種の運命共同体。「何をするにもふたり一緒」という状況は、両親の目もふたりに分散する。それは、後々妹たちにとっては、何かと都合がよい状況となった。律子は、3姉妹のなかで1人浮いていた。

両親は、恐らく律子に婿養子をとろうと考えていたのだろう。律子の生活に関する厳しさは、妹たちとはかなり違っていた。律子は、成長過程においては、その厳しさをさほど意識していなかったが、自分が大人になり、妹たちも少女時代を過ぎるにつれて、深く感ずるようになった。

入社も3年目まで半月のある日のこと、大学受験も無事終わり、卒業を待つばかりの高校3年生の奏子と響子が、同級生の男子の話題で盛り上がり、響子の密かに好きな相手の話題になった。

「森君って、やっぱいいよね、別々の大学に行く前に告白しちゃおうかな、カナちゃんどう思う?」
「悪くないけどさ、大学行ったらもっといいひといるかもよ?」
「あ~、それもあるかあ。難しいね、そこ」

こんな話ができる妹たちが羨ましい。家でできるなんてすごい。何か言ってあげたいけれど、私には言えないな。だってキッチンにお母さんいるし。きっと言うよ、「あなたたち、何てこと話してるの?」って。
母が聞き耳を立ぬはずがない。律子は1人ドギマギしていた。

そして、やはり母は現れた。
律子は咄嗟に全身に冷や汗が出る。このまま続けてはいけない。どうにか話の方向を変えないと。1人焦る。
母は一緒のテーブルに腰をかける。律子の胸はますます高鳴る。

だが、響子はそのまま続ける。
「でもさ、このままで森君とさよなら何だか心残りだな~」

すると、母が自然に話に加わる。
「響子、やっぱりそうだったのね。お母さん、そんな気がしていたのよ。森君いいんじゃない?」
母の目は微笑んでいた。
「え、まじ?お母さんもそう思うの?」
響子は笑った。奏子も笑った。

律子は笑えなかった。1人笑えなかった。
律子は、母がどのような態度をとり、どんな厳しい言葉を発するか、勝手に想像をし、焦り、胸が苦しくなった。
妹たちの楽しい会話を損なわせてはいけない。妹たちの気持ちを失わせてはいけない。そんなことを思った。

だが、実際は違った。母の自然な発言、微笑み。妹たちの変わらぬ無邪気な会話。律子だけが知らない世界が、そこにはあった。

私も笑わなくちゃ、と律子は思ったけれど、口と頬はひきつるばかり。しまいには、つうと涙が一筋こぼれた。まずい。
でも、すかさずそれを見つけた奏子が言った。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

「ううん、何でもないわ。気にしないで」

律子はガタリと席を立ち、足早に2階への階段を上った。
背には、母の強い視線を感じた。
律子の涙は溢れた。

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