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フィンガー シークレット «chapter 8»

律子は、ハルに家でのことをありのままに話した。

ハルはしっかりと律子の目を見つめながら、最後まで静かに聴いた。ただ、その後、すぐに言葉は続かない。
2人だけの時間に起こった珍しい沈黙。ハルは煙草に火をつけ、壁を見つめた。

ハルの煙草を持つ手は美しい。軽く煙草を挟む人差し指と中指、そこに軽く添えられた親指。テニス部の仲間たちと、たまに吸う姿を見かけたことはあったけれど、律子と2人だけの時はこれが初めてだ。律子は吸い寄せられるように見つめる。

このような緊迫した状況の中でも、ハルの指からは、父のように律子の神経を凍らせるような波長は一切こぼれ出なかった。

何故だろう。
いつも眺めているハルの指の動きを思い浮かべる。ああ、そうだ、ハルの指には直線的な鋭い動きがない、急な停止もない。あの柔らかなストロークのように、最後まで丁寧な曲線を描く動きなのだ。それが、律子を安堵させる。指の動きが描き出す印象は、その人の内面と繋がる。ハルの心もまた、丁寧で優しく柔らかい。

律子は、父の心の弦の奇怪な強張りと、父に全面的に従属している母の不自然さ不安定さに、本当は疲れているのだ。そして、ハルのような、律子の気持ちを最後まで丁寧に見届けてくれる存在を求めているに違いない。

まるで時が止まったかのようだった。
いや、いっそこのまま止まってしまえばいいのに。
そうしたら、ハルと自分の関係は、誰にじゃまされることなくここで止まる。これまでのハルとの心安らぐ楽しかった時間だけに囲まれ、それが永遠に続くのだ。

真っすぐに上に揺らめき昇っていた細い青い煙が、大きく揺れた。燃えかすがぽとりと下に落ちた。
時が動いた。
動いてしまった。


「りっちゃん」
ハルに呼ばれる。ハルの目を見つめる。

「父は、俺に自分の工場をつがせようという気持ちは全くない。それは、俺が大学を受験すると決めた時にわかったことだ。だから、俺は秋田を離れた。柳の家に俺が引き留まらなくてはならない理由はないんだ。りっちゃんの家のことを相談したら、父は自由にしろと言ってくれるだろう。父はそういう人だ」

ハルは冷めたコーヒーを飲む。視線が落ちる。

「だけどね、りっちゃん。俺はね」
ハルの言葉が止まる。そして、視線が律子に戻る。

「俺はね、それだけはしたくないんだ。これまで、俺と妹たちにやりたい道を選ばせてくれた父と母に、俺はこれから少しずつ恩返しをしていきたい。その役割は、妹たちではなく、やはり俺なんだ。もしも、りっちゃんの家に入ったら、俺はりっちゃんとりっちゃんの家を本気で守りたい。その場合は、秋田の家のことは、父と母のことを妹たちに任せなければいけない。暫くはいいんだ、父も母もまだ若い、どうにでもなる。でも、将来、必ず家の責任を誰かが負わなければならない時がくる。その時のことを、俺は今からきちんと考えなければいけないと思うんだ。先送りにしたところで、なんの解決にもならない。どちらの家も大事には、結局、どちらの家も疎かに、という結果になると思う。ごめんよ、りっちゃん、全てを受け入れることはできないんだ」

ハルは苦しそうな顔をしていた。ハルは戦っていた、自分自身と。それが手に取るように律子にはわかった。


その時ふいに、律子に強い思いが湧いてきた。それは、頑固たる思いだった。

ハルのような人に、そしてそのハルの家族に、父のあの弦に触れさせてはいけない。父を前にしたら、ハルは心から私のために頑張ってくれるだろう。でも、結果はわかる。あの父は、いざとなったら豹変する。あらゆる手を使ってハルを追い込む。それを適当にかわせる人がいたとしたら、相当手慣れた、ある意味適当な人だ。
ハルのような心の美しい、健全な人には耐えられない、理解すらできない。それでもハルは頑張って、そしてきっと壊れてしまう。あの弦の強さ、異様さ、奇怪さにに負けて。
あれに耐えられるのは、母と、そして自分だけだ。耐えていかなければいけないのも、母と自分だけなのだ。


その後ハルは、どうにか律子の父に直接会って、自分の気持ちを伝えたいと望んだ。結婚の形は要望通りにはいかないけれど、律子を幸せにする自信はあるということを、男として伝えたいのだと。

その夜、律子は、父にハルのその申し出を伝えた。だが、案の定、無碍なく父はそれを断った。

律子は知っていた。たとえ、2人が会う機会を無理やりつくったとしても、父はいかなる理由があろうとも、ハルを認めないだろう。

あの舌打ちが聞こえる。父の心の弦が張る。

父に逆らい、全てから逃げて、ハルのもとに行くことも本当は可能なのかもしれない。律子が勇気をもって行動を起こしてしまえば、結果はついていくのだから。
だけれども、そうやってハルと新しい人生を始めても、軽くはない荷物を心にぶら下げることになる。そして、その荷物の重さは、徐々に増していくだろう。自分もハルも。そういう人間だ、2人とも。

ハルとの縁の糸は、限りなく細かった。律子はそれに気づいていたのだ、本当は。いつか大森山公園に行こうなとハルが言ってくれた時、律子は返事をしなかった。
そう、わかっていたのだ。行かれる日が来ることがないことを。

律子はハルの心を、ハルの人生を、いい加減に扱ってしまったのかもしれない。
自分の気持ちの弱さゆえに。
父を超えられない幼さゆえに。
ハル、ごめんね、私、甘かったよ。
ごめんね、ごめんね。


ハルとの別れの時、律子はハルの指にそっと触れた。
いつの日か、お揃いの指輪をしたかったな。
でも、永遠にそれはない。律子はその道を選んだのだから。

駅から家への道すがら、律子は小指の指輪を外した。みぞれが降っていた。


冬が終わった。春の訪れと共に、律子は会社を辞めた。初めて律子の意志で決めたことだった。

入社の際に尽力した父は、自分の面子をつぶす行為だと律子を責め立てた。
予想していたわ、お父さん。

律子は、深々と頭を下げ
「お父さん、申し訳ありません」
父を見つめて強く言った。

(2428文字)


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