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フィンガー シークレット «chapter 10»

「お父さん、お母さん」
響子の爆弾投下が始まる。

父と母は、響子を見た。響子は躊躇なく続ける。

「私、結婚することにしたわ。お相手は、会社の人。歳はお姉ちゃんと同じで、今年29歳。名前は、近藤繁。そう、お父さんの会社の常務さんの息子よ」

父の「えっ」という声。

「近藤さんのところは、男3人兄弟でね、繁は歳の離れた三男で、家に縛られる必要は全くないの。だから、うちの婿養子になっても全然かまわないそうよ。あちらのお父さんも、栗原君のところなら問題ないって仰ってたし。別にこの家だって、お姉ちゃんがお婿さんをもらって継がなくてもいいんでしょ?これから探すもの大変だしね。なんてったってお姉ちゃん、時代遅れの奥手だから」

響子は父に、母に、律子に視線をゆっくりと移す。

「学歴よし、家柄よし、見かけよし、の3拍子揃いよ、繁は。この家のお婿さんにぴったり。ついでに相思相愛、繁となら私うまくやっていけるわ。お父さん、まさか反対はしないわよね?」

響子の落ち着いた態度、話し方。律子はその静かな迫力に圧倒される。

父はひとこと「ああ」と発し再び口を閉じた。
何かをしきりに考えている様子ではあったが、後の言葉は続かない。響子の願い出は、父の理想にほぼ当てはまる内容だ。ただひとつ違うのは、栗原の名を残すのが、律子でなく響子だということだ。だがそれは、父にとっては恐らく大した問題ではないだろう。

沈黙を打ち破って、響子の声が響いた。

「私の話はこれで終わり。ごちそうさまでした」

さらりと言って、響子は席を立った。


「キョウちゃん、びっくりしたわ」
律子は響子の部屋で言った。
「もしかして、近藤さんとの結婚を考えたのは、私のことを心配してのこと?」
律子は気になることを響子に確かめておきたかったのだ。

「そうだな、どうかな。実は私も本当のところはよくわからない。きっかけはね、確かにお姉ちゃんが柳さんのことを、お父さんと家のために諦めたことだと思う。あ、家のためというよりは、カナちゃんと私のためだよね、違う?」

律子は何も答えられない。

「お姉ちゃんはばかよ。自分の好きにしたら、カナちゃんか私がお姉ちゃんの代わりにを務める羽目になると思ったんでしょ。小さい頃からお母さんみたいなところあったもんね。お母さん以上にさ。
カナちゃんも私も、お姉ちゃんの下にいることで、長いことさんざん自由にしてこれたんだよ。だからね、あの時はしたいようにしちゃえばよかったんだ。だって、私だって、カナちゃんだっているんだもん。いくらでもどうにでもなったんだよ。
だけど、お姉ちゃんは大好きな人との結婚を諦めた。どれほど辛いことだったかは、遊び惚けていた私にだってわかるよ。
人はさ、男だって女だって、人生の中で本当に本気で好きになれる相手にはなかなか出会えないんだよ。殆どの人が、こんなもんかな、とか、きっとこれが運命だ、なんて適当に判断しちゃう、1人が寂しくてね。初めて好きになった人が、本気になれる人だったなんて、もう、もったいなくてもったいなくて腹が立ったよ、お姉ちゃんには。
私は、これまでずっと自由気ままにやってきた。好きな人もたくさんできたし、嫌いになった人もたくさんいたの。一通り、たいがいのことは済ませてしまったのよ。だからもういいの、そういうことは終わりで」

響子は珍しくため息をつく。

「お姉ちゃんが本当に柳さんと別れちゃったと知った後ね、私、お父さんのことがどうにも許せなくなったの。もともとお父さんのことは好きじゃない。あんな自分のことが一番大事な人なんて。それでも、父親だからさ、仕方ないなって思ってきたよ。しょうがないもんね。
でも、何が何でもお父さんをぎゃふんと言わせたくなった。お姉ちゃんのぶんも。どうしたらいいかな?って考えたとき、閃いたんだよね。
お父さんが文句ひとつ言えない、いい男を見つけてやればいいんだって。それが、私ができることなんだって、ちょっとワクワクしたわ。
その手始めが、就職をお父さんに頼んだことよ。あの時のお父さんの顔覚えてる?おっかしくてお腹がよじれたわ。そして、この線でいけるって思った。実際に次ぎから次へと思った以上にうまく進んだしね」

響子が座り直した。

「だけどね、お姉ちゃん。ひとつとても予想外だったことも起こったの。それはね、繁が本当にいいヤツだってこと。あの人は最高よ、間違いない。私、繁の前だと本当の自分になれるの。お姉ちゃんもカナちゃんも知らない私にね。だから私のことは心配しなくて大丈夫。
それよりね、大事なことはただひとつ、もうお姉ちゃんは自由なんだってこと。何でも思ったとおりにしていいの。家を出たって、どこに行ったって誰も文句は言えない。何にもとらわれずに、思いっきり羽ばたいちゃっていいんだよ」

響子が、律子の目を覗き込む。

「ずいぶん時間がたっちゃったけれどね、もしかしたらまだ間に合うかもしれないよ。お姉ちゃんの中には、まだ柳さんがたくさん残っているんだから」

響子の気持ちと言葉は、律子のしまっておいた柳への気持ちをそっと蘇らせた。律子の右手は、いつの間にか左手に重なった。そして、かつて肌身はなさずつけていたハルにもらった指輪をなぞるかのように、左手の小指を愛おしくなで続けた。

響子の結婚話は、その後順調に進んだ。その進展を見守りながら、律子は自分自身のことを考える。生まれて初めて、誰のことも気にせず、誰にも頼らず、律子は自分と真剣に向かい合う。

休日には不動産屋を回ってみた。栗原の家には、そう遠くない時期に響子夫妻が新しい家族として入るだろう。それは同時に、律子の新しい世界への扉が開くということだ。律子は家を出ることを決めた。

現在の法律事務所の仕事は順調。そう贅沢をしなければ、部屋を借りて1人で生活していくことはできる。その決心と同時に、律子はその後の人生のひとつの目的も見つけた。働きながら勉強し、司法書士の資格を取ること。決して簡単なことではない。でも、その目的を持ち、それに向かって努力することで、自分に自信がもてるように思えたのだ。

律子は自分のこれからを整えながら、自分の心のうちをそっと確かめる。
家を出る。勉強を始める。それだけでいいの?私は。
どうして私は、小指をなでている?なでてしまう?
もう再びもどれないあの頃を、まだなぞっているの?
それとも、どこかに向かっているの?向かおうとしているの?

始めは、自分に生まれたほんの小さな芽だった。その芽は日に日に大きくなり、否応なしに意識せざる負えない大きさになった。茎が育ち、葉が付いた。繊細な可憐な葉だ。そこに花は咲くことがあるのだろうか。律子は色々な角度から慎重に眺める。そして、とうとういずれ蕾になるかもしれない小さな塊を見つけた。

その塊から花を咲かせたいと思った。そう、かつてのあの頃の花を再び。

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