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ショートショート/拝啓、夏目漱石先生

拝啓、夏目漱石先生

突然で申し訳ないのですが、先生の書かれた小説の一節に激しく共感したのでお手紙したためております。ちょっと、聞いてほしいんです。

私には仲のいい男友達がいたんです。同じクラスで、野球部なんだけどチャラくて、一見私とは合わなさそうな性格の彼。でもなんか笑いのノリとかツボがお互い合ってしまって、よく教室で話したり、ふざけあったりしていました。

そんな彼、1年生の頃からお付き合いしているソフトボール部の彼女がいるんです。

高校という小さな社会では、誰が誰と付き合っているかなんて周知の事実でしたから、当然私も知っていました。

でも別に彼に対して恋心があるわけでもなし、本当にただおしゃべりするだけの級友でしたから、私は気兼ねなく彼と話していました。

ところが事態は一転。

彼が彼女との関係に飽きたんだか、彼女の嫉妬深さに疲れたんだか知りませんが、急に私に絡む頻度が増えました。

こっちとしては、友達が絡んできてくれるということは嬉しいのですが、問題は彼女の存在です。

我が校のソフトボール部と言えば、そこそこ強いことで知られていました。部員もそこそこ個性的で、色んな意味で強い女子が多かったんです。

当然、彼の彼女も個性的かつ、我が強い子でした。

彼は彼女との関係を終わらせたいのか、彼女の前だろうとなりふり構わず、私に仲良さげに絡んでくるようになりました。

廊下や道端など、彼女が通り過ぎる際でも絡んできます。むしろそんな時に限って、普段呼ばないくせに下の名前で私を呼んだりします。

色んな意味で強い彼女の近くで、彼からそんなふうに絡まれては、肝が冷えっぱなしです。

校内でも存在感のある彼女に睨まれては、今後の学校生活がやりづらくなります。

そんなある日、夏目漱石先生の「こころ」を

国語の授業で読みました。

その中で「鉛のような飯を食いました。」という表現が印象に残りました。主人公が居辛い状況で食わねばならない食事を、そう表現してらっしゃった。

ニュアンスはなんとなく理解していましたが、鉛のような飯とは実際、どんな感じだろう…独特な表現だなあと思いました。

それから少しして、大学の見学という行事がありました。興味のある分野の大学に訪問するのです。

私はスポーツが好きなので、体育学部に行きました。

ここまで読んで、先生ならもうお分かりかもしれません。そう、ソフトボール部の彼女も、同じ大学に訪問する1人だったのです。

当日になってそれを知った私は、集合場所で愕然としました。

なんて気まずいんだ、と。

最近の彼の私への絡みっぷりを、彼女は知っているはずです。気まずくないわけがありません。しかも私と彼女は、元々ほとんど接点がないので、話したことがありません。嫌いというわけではないけれど、仲良く話をする相手でもない、といった感じです。

その日も口をきくことはありませんでした。

重い気持ちで、早く帰らせてくれと願いながら見学を済ませ、昼食は大学内の学食を食べていこうと引率の先生が言いました。


なぜこうなるのか。

彼女と私は斜向かいの席で、ほぼ向かい合うような形で座りました。

私はその日、仲の良い友人は別の大学に行っていたので1人でした。全体的に仲の良い数人組がいるわけでもなく、会話しない者同士の集まりでした。そんなわけで学食内は終始静かでした。

それが余計、私と彼女の間の雰囲気を重くしていました。

お互い、一言も発することなく食事をとりました。

その時、強く思ったことを今でも覚えています。


あぁ、これが鉛のような飯か。


先生の書かれた表現を、自分なりに嫌というほど体感した貴重な日でした。


先生はもしかしたら、それは私の書きたかった意味とは異なると仰るかもしれません。

ですが、私は確かにあの時、鉛のような飯を食ったのです。

それを先生に伝えたかっただけなのです。

ちなみにその後、彼は彼女と別れ、私とお付き合いすることとなりました。

そんな彼と私は今でも一緒…ということもなく、私も彼とは別れました。

そんな後日談はどうでもいいのですが、後にも先にも、鉛のような飯を食ったのはきっと、あの日だけだと思います。

というか、今後もまた鉛のような飯を食うような人生は嫌です。



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