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父を喪う。ありふれた悲しみの方程式

「この感情は何に起因するんだろう?」

突然、父を喪った。

なにがなんだかわからないまま迎えた告別式のさなか。
私は、睡眠不足なのか、張り詰めた気持ちが崩壊しそうになっているのか…なぜかはわからないけれども、今にも倒れそうな、気絶しそうな状態をギリギリ持ちこたえていました。
そして、ずっと考えていました。

「この感情は一体なんだろう?何に起因するんだろう?」と。

その方が感情の波に飲まれずに少しだけ冷静になれることを知っていたからです。

別離の悲しみ

最大の要因は、別離の悲しみ。

これは失恋や卒業といったものと同種のもので。ただ、それが長い時間を共にして来た、身近で大切な人との、今生の別れだという点でとてつもなく程度が大きくなります。

ただ、「一生会えない」ということを正直すぐには受け止められなくて。
母は毎日暮らしていた父がいないというのは、常に不在を感じてしんどいに違いないのですが。私の場合は、仕事で忙しく会えていないだけで、そのうちまた誕生日会の日程調整で連絡してくれるんじゃないかって思ってしまって。

離婚した時に毎日そこにあった日常のすべてが失われた「別れ」の方がショックとしては大きかったような気すらします。

「最大の要因」と書いてみたものの、実感がわかないこの悲しみは本当にそうといえるんだろうか…と思ってしまいます。

「死」という理解不能な経験への恐怖

だからきっとそれだけが要因ではないはずで。

悲しみの要因のもう一つには「死」という理解不能な、絶対に知りえない経験への恐怖感が付加されているように思います。

顕著に感じたのは、集中治療室で全身の力が抜けた状態でたくさんの管につながれた意識不明の父をみたとき。それから、棺にいる氷のように冷たい父の肌に触ったとき。

ついこの間まで一緒にごはんを食べて、これからのことを話していたのに。

命が輝く瞬間をたくさん見てきたからこそ余計に、「もぬけの殻」状態の肉体にぞわぞわと恐れおののく気持ちが強く湧いてきました。

そして、この不可解な「死」なるものが、いつかまた別の、私の大切な人にも必ず訪れるもので、最終的に自分にも訪れるという、その未来を想像すると、背筋が凍るような心持ちになります。

人1人が戸籍から消えることから生まれるストレス

さらにあると思うのは、自分と関わりの深い関係にある人が戸籍から消えることに伴う、完全に未経験のさまざまな手続きと意思決定と人間同士の摩擦からくる大いなるストレス。

病院の後処理に始まり、死亡を届け出て、葬儀の準備をして、相続の手続きのための書類をつくって…。
人が死ぬことのあっけなさに対して、戸籍から人がいなくなることに伴って向き合うべきことの煩雑さは、想像の域を超えていました。

結婚する際の各種手続きや、新卒で入った会社での毎日や、言語もままならないまま留学した先での生活などにも通じると思うのですが。
死を起点にした対応の場合、そのすべてを完璧にやったところで、父がかえってくるわけではない、何かがより良い状態になるわけではないという虚しさが徒労感に拍車をかけます。

「お母さんはきっと大変だと思うから、支えてあげてくださいね」と100%の善意で伝えてくる人へのもやもや感。
葬儀に参列する予定の会ったこともない人からの無遠慮な問い合わせに対しての行き場のない苛立ち。
それらを抱えながら、忌引き休暇をとるためのしわ寄せで業務がたてこむものの、どうしても前向きに取り組めないことへの不甲斐なさ。

こんな世間知らずな娘でごめんなさい。
こんなに仕事進められなくて迷惑かけてごめんなさい。
優しい言葉をかけたり、思いやりにあふれた行動ができなくてごめんなさい。
とダメな自分への罪悪感がうずまいて、心と身体に、シンプルに大きな負荷がかかっている感覚があります。

「そんなことないよ。申し訳ないなんて思う必要ないよ。」
わかっていても、誰かにそう言ってほしくて、少しだけ友人に甘えたこともありました。

かけあわされて肥大化するありふれた悲しみ

1つ1つは小さな感情の機微にすぎないのかもしれない

書き出してみると1つ1つの悲しみは、悲しみと呼んでもいいのかわからないような感情の断片に過ぎないのです。

けれど、これらが足し算ではなくて掛け算で肥大化した結果、とんでもなく大きな感情の渦となって押し寄せているような、そんな感覚がイマココにある気持ちなのではないかと思い至りました。

つまりこの悲しみの方程式は、複数の変数の掛け算によって成立しているのではと。

初めて知る、心を慰めるプロセスも

高まりきった感情の波に溺れながらきくお経は、祖父母が亡くなった時に感じるものとは明らかに種類が違うものでした。
参列客が多く、住職さんはいつも以上に気合をいれてお経を読み上げてくださっているようで、さながら鎮魂歌のような響きを帯びているように感じられたのがまずひとつ。
加えていつもほんのり冗長さを感じていたのに、むしろあっという間というか、驚くほどにあっけなく終わったように感じました。
そしてまだ私はこの場で起きていることが本当に自分の身に起きていると実感できないのです。

葬儀に友人を呼ぶ、という発想は、呼ばれたこともなかったから全く思い及ばなかったのだけれども。
お通夜には会社の上司が参列してくださり、みんな忙しいのに時間を割いてくださっているというありがたみと、あぁこんなに仕事回せてなかったけれど、弔いの言葉をかけていただいていいんだという安堵感などが押し寄せてきて、通夜告別式の2日間の中で一番涙があふれました。

葬儀って生きている人同士が慰めあうプロセスなんだと、そこで初めて気づかされました。
単に儀式として死者を送り出す場ではなくて、死者を軸に生きている人たちが紡いできた繋がりを感じて、そこに救いを感じたりする場なのかもしれないと。

未だに言語化できない「ありふれた悲しみ」の途上に

この整理できない感情や実感のわかない喪失感には終わりがなく、未だに私は手ごたえのない、でも確かにあるはずの「それ」をどう扱ったらいいのかわかりません。

けれどこの悲しみは世間一般に照らせば本当に「ありふれた悲しみ」に過ぎないというのが驚くべきことです。
でもだからこそ、私は少しだけ、同じように「ありふれた悲しみ」を抱えて呆然とする人の気持ちに歩み寄れるような、心に柔らかさを手に入れることもできたのかもしれない、とも思うのです。

なので、私の内側を通り過ぎていく、一つ一つの感情の断片をかみしめて、なるべく言語化して、どんなものであっても受け止めていこうと、今はそう思っています。

悲しみにあふれたnoteを書いているように見えるかもしれませんが、ご心配には及ばず私は元気ですし、とても前向きである、ということも付け加えておきたいと思います。



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