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きらめき

幼少期の記憶というものは不思議なものだ。もう15年ほど経っているのに好きな物や、楽しかった思い出は未だにふと思い出すことがある。

 わたしは幼少期から2、3回ほど引っ越している。それは祖母の家の地域が花粉が酷く、弟の症状が悪化してしまうから、夫婦間の仲が悪く別居することになった、など大人の事情もあるのだが、私が強く記憶に残っているのは海辺の幼稚園へ通っていた頃であろうか。

わたしは海辺の幼稚園に通っていたのだが、今はもう幼稚園は廃止になってしまい、空き地になっているそうだ。自分が通っていた場所が無くなるのは記憶も無くなるようで少し悲しい。私の記憶が確かであれば、幼稚園は少し崖の上に立っていて、坂道を下るとすぐ海だった。崖の上のポニョの宗介の家のような場所をイメージしてもらうと分かりやすい。

海の近くだったので、もちろん海で遊ぶ日も設けられていた。(といっても4歳くらいの園児なので海に入ることはなく、砂浜で遊んだり散歩する程度)わたしは海辺のお散歩の時間が大好きだった。今は海辺でシーグラスを見る機会が減ったなと感じるが、私が小さい頃は茶色、黄、青、緑、色んな色のシーグラスを拾うことが出来た。先生が遠くまで行かないように線引きをしてくれていたが、拾うことに夢中になると時間も線引きも忘れてしまいそうになるくらいだった。シーグラスだけでなく、貝殻も拾うことが出来た。外側は石灰っぽくて中はツヤツヤの貝、小さいけど薄赤紫の貝、表は黒いのに中は虹色にキラキラした貝など、様々な貝殻が遠くの海から流れ着いていた。
それらを集めて眺めることが好きだった。貝殻を覗くと海の声が聞こえるような気がするからである。

空気階段のネタに打ち上げられた貝殻に訪れた時、場所、人の声が録音されていて、それを集めるというネタがあるのを思い出した。貝殻ってすごくノスタルジックだと思う。

お散歩が終わった後は自由時間だった。外で遊んでもよし、教室で遊んでもよし、自分の好きなことが出来る時間だった。わたしは外で遊ぶより、人形を使っておままごとをしたり、折り紙を折ったり、毛糸を使ってマフラーを編んだりする方が好きだった。自分は昔からインドア派寄りなんだと思う。図工も美術もずっと好きだし、何かを作ったり、描いたりするのが好きだ。現在も芸術系の大学に通っており、大学生になってから美術に触れる機会が増えた。最近はモネ展を見てきた。
美術について古典主義、印象派、写実派など学んできたがそれについて詳しく説明出来るわけではない。しかし、美術に触れて、この作品に惹かれたという気持ちは大事なんじゃないかと思う。最近は私はクリムトの「接吻」の絵が好きだ。金色の箔に包まれた恋人たち。接吻、そして抱擁は精神的・肉体的にも包まれる。愛に包まれた恋人の様から暖かさを感じるのだ。

遊び終えるとみんなでお歌を歌い、帰宅の時間になる。父は昼勤、夜勤どちらもしていたので、迎えに来てくれるのはいつも母だった。夜勤の父は夕方には出かけてしまうのでベランダから母に抱っこされてお見送りをするために手を振った。父は覚えているだろうか。

家の近くには駄菓子屋があった。そこでわたしは金平糖を買うのが好きだった。金平糖はシーグラスに似ている。薄く濁っているし、淡い色の味がたくさんある。金平糖は着色料や香味料でそれっぽく味付けしているだけなのに、フルーツの味がして不思議だ。
小さい頃から金平糖が好きなので、駄菓子屋に寄った時は必ず金平糖を買うし、仕送りで母が様々な色の金平糖を送ってきてくれたこともある。自分の中の好きな物は母の中でも不変な物として捉えられているようだ。

でも、そのせいでよく歯医者に通っていた。乳歯が生え変わるまではよく詰め物をしていた気がする。歯を綺麗に磨けば歯医者にかかることなんて無いのに、治療を頑張ったご褒美というのもおかしいが、終わると消しゴムが入ったガチャガチャを引かせてくれた。MONOや激落ちくんの消しゴムと違って、果物や車、動物の形をした消しゴムは文字を消そうとすると全く消えないといっていいほど、本来の使い道として使い物にならない。だからなのか、わたしはコレクションしていた。

私がそこへ住んでいたのはほんの3年くらいだろうか。幼稚園年長頃に親の仲が悪くなってしまい、引っ越しをし、別の幼稚園へ移ったからだ。今はなんだかんだあったものの両親は一緒に暮らしている。

幼稚園で使っていたものはもうほとんど持っていないが、今度実家へ帰った時にアルバムでも開いてみようかと思う。

p.s. 生まれた時に体重が3600gもあったせいで子供の頃からずっと身長が大きい。母は腱鞘炎になったそうだ。でも、身長も、愛を受け入れることができる私の心の容量も、そんな朗らかな大きさが好きだ。

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