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キツネではない


以前、タヌキかもしれないという文章を書いた。

起伏に富んだ道を歩いているとき、しばしば自分はタヌキだと感じる。
しかし、キツネではない。私は私がタヌキかもしれないと疑うが、決してキツネではないと自信を持って言える。

なぜだろう。自己中心的でいて自己肯定感の低い私は、自信を持って言えることがほとんどない。
飽くなきマウント戦争から身を引き、半分巣籠もりして半分社会に参加している、一匹のタヌキだ。


私がキツネではない理由は、己がずる賢くないと思っているとか、勝手にあれは酸っぱいブドウだと決めつけたりしないとかではない。
私はずるいし負け惜しみを言ってしまうこともある。性格を鑑みるとキツネらしい部分もたっぷり詰まっている。タヌキとキツネの解釈次第では、キツネのほうが自分に当てはまることもある。

おそらく、現実の暮らしのなかにキツネが存在しているからだ。この辺りにはキツネがよく現れるが、タヌキは滅多にいない。キツネのほうが現実味がつよいのだ。エキノコックスがあるから触れてはいけないと教えられてきたし、真夜中に時折聞こえるキツネの鳴き声に恐怖を覚える。

(真夜中のキツネの鳴き声はコンコンとかけーんけーんなんてものではない。追いつめられた犬の苦しみ叫ぶ声のようであり、慟哭というのがしっくりくる。怖い)


住んでいる地域がタヌキに馴染みのある場所だったら、私はキツネになっていたのだろうか。

現実からより遠い方を、選びとりたいのだろうか。

くだらない空想のおかげで、ネガティブになる時間をつぶし、自分なりの楽しさを見出だしてきた。
これからも空想をつきつめる訳でもなく、現実一辺倒でもなく、揺蕩うのだろう。

人間である自信はないけれど、キツネではない。タヌキかもしれないやつなのだ。
タヌキかもしれないやつが、できる範囲で人間社会に奮闘し、残り半分はタヌキを楽しむ。そうやって、生きていきたい。

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