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【散文】「セワシについて考える」──『ドラえもん』の「物語」をめぐって

 セワシについて考える。

 国民的アニメ(個人的にはまんがと呼びたいが)『ドラえもん』。21世紀に幼年期を過ごした者であれば、誰でもメインキャラクターのヴィジュアルくらいならただちに想起することができるであろうこのビッグコンテンツはしかし、あまり顧みられることのない要素、キャラクターによって規定されている側面がある。

 セワシ。主人公であるところののび太の子孫。

 彼の到来によって、物語は幕を開ける。「ドラえもん」ではない。彼はあくまでもネコ型「ロボット」であり、その意味において彼に主体性はない。時間遡行の責任を負っているのはあくまでもセワシであり、ドラえもんにその種の責任はない。彼は物語を背負わない。記号として、家電として、あるいは無二の友人として、ただそこにある。「ツルリとした」(江藤淳『三匹の犬たち』)工業製品として。

 だからセワシについて考えるということは、直裁的に、ドラえもんの物語について考えることを意味する。もはや多くの人(なにせその範囲は「日本国民」などという、浮薄な言葉が指す何百万という人間を包含するのだ)が顧みることのない「物語」を。

 ドラえもんは言う「きみをおそろしい運命からすくいにきた」。そしてそれは、取りも直さずそれを彼に命じたセワシの言葉でもある。

 セワシ。のび太の孫の孫。

 彼は自分を取り囲むすべてを改変するために──破壊するために20世紀にやってきた。1969年の元旦、退屈な午後へと。だからその点において、『ドラえもん』は克己の物語、実現の物語、成長の物語だ。成長にも克己にも、ビルドゥングスにも興味がないからこそ想像力は飛翔する、と宇野は書いた(「『タコピーの原罪』と『人生』の問題」──『2020年代の想像力』所収)けれど、今や、ビッグコンテンツの、その商業的なうねりの中で忘却されつつある「物語」の根底には、たしかにそのような性質が──重く、それゆえに、物語として記述するにはあまりに醜い「人生」の蠢きがある。

 セワシ。貧困と辛苦の果てに、過ぎ去った20世紀へと飛翔した少年。

 「おじいさんのおじいさん」。それはほとんど他人だ、と断言してしまうのはあまりに罰当たりというものだろうか。しかし20世紀後半、もはや十全なかたちでは成り立ち得なくなった「家庭」というもののうちで、自分の血族(こうした言葉も成り立ち得ないだろう)を遡ることには、いかほどの意味もないはずだ。少なくとも、それは自分の人生を意味づけてはくれない。そうした汎家族主義に自己を投企するには、僕らはあまりに複雑な時代に生きてしまっている。

 しかし未来──それはセワシが属する未来でもある──時間遡行が現実のものとなったとき、そうした構造は裂開する。注目するべきなのは、それがあくまでも「裂開」にすぎないということだ。家族主義は依然として、かび臭い過去の遺骸以上の意味を持ち得ない。祖先は過去──ほとんど断絶といってもいい、時間の溝の先に佇む茫洋な存在でしかない。

 それでも、彼はそこにかけるしかなかった。いるかどうかも分からない、意味があるかどうかも分からない、20世紀の祖先に、自分の人生を、運命を、すべてを託すしかなかった。その宿命。その過重。そしてそれは、その重みをそのままに、のび太へと降りかかっている。

 のび太。セワシの「おじいさんのおじいさん」。かつて・ここの「ぼく」。

 その豊かな想像力をもってしても思い描くことのかなわなかった、21世紀の子孫。自分の血が、ミームが、背負わざるをえない歴史のすべてが収斂する、遙か遠くの結節点。そのような存在としてセワシは、最も身近な座軸であるところの机の引き出しから到来する。そして、その運命のすべてを託して、自らの宿業を暴露してしまう。

 いま、ここに生きるということは、未来の世代に責任を負うということだ、と断じているひとびとがいる。あるいはそのロジックは、すでにシステムなのかもしれない。あらゆる属人性のくびきから断ち切られたものとしてのシステム。

 そのようなものの、漠とした広がりから、顔をもった実存が到来してくる。そのような絶望としてあの一話はあった、と断じることはできるだろうか。

 否、それはできない。それは恐らく、希望でもあるからだ。

 20世紀の退屈な午後が、いつか澱み、崩れ去ってしまうこの午後が、自らもを巻き込んだ滅びへと続いていること。その暴露、その糾弾。それはたぶん、救い以外のなにものでもない。それがやがてコンテンツとして、終わりなき日常を終わりなきままに活写(し続ける)コンテンツとして収斂してしまうとしても、「その時」の予感はそのままに、留保され続けているからだ。

 「それ」は到来を待っている。机の引き出しの中で。僕らの生活の鼻先で。歩みを停めた物語は、静かにその時を待っているはずだ。

 僕ら。いま・ここに生きる。21世紀を生きてしまっているものたち。

 僕らが望んでいたのは恐らくは、ドラえもんではなかった。それはドラえもんである以上にセワシだった。運命を告げる役目を負わされた、いつか・どこかの少年。もう一人のぼく。鏡像。写像。すべて未来の友人。

 そしてまた、セワシも「僕ら」を望んでいた。そう断じることはできるだろうか。

 僕らは、彼らにとっての未来を生きてしまっているというのに。

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