屈強なナマケモノ



ナマケモノは、哺乳綱有毛目ナマケモノ亜目(Folivora)の総称。そのゆっくりとした動作から「怠け者」という呼び名がついた。食事は日に数グラムの葉を手の届く場所からむしって食べ、一日10時間以上眠り、動かないことで風景に同化し身を守る。




素晴らしい、なんて親近感の沸く生物だろうか。
自分も休日には10時間眠り、スーパーに行くのがおっくうなら数枚の食パンで過ごし、大人数の飲み会では隅の方で誰かの子供たちとマリオをやって目立たない様にしている

全く他人事とは思えない。


しかしナマケモノ側としても決して怠けたいからこの様に生きているのではなく、彼らなりに必死にやってこの結果なんだろう。
周りからはダメな生き物に見えてるだろうがこっちだって一生懸命なんだ。わかるよ。
むしろ我々からしたらあなた方が超高速で動いてるってだけなんですからね


そしてことさら心に響いた生態は次のものだった

「ナマケモノは外敵に襲われた際、せめて苦痛の無いよう全身の力を抜いて抵抗をやめる。」

初め聞いたときはなんて命に対して消極的な生物だろうかと驚いたが、今はよくわかる。痛みから遠ざかるために抵抗を諦めて力を抜くという判断が。


自分はとにかく要領と運が悪く、車の任意保険適用の前日に事故を起こす、干していた布団が風で飛ばされて水たまりで発見される、かつて片思いしていた人と海に行った際には毒クラゲに囲まれて人生に王手をかけられるなど、散々な思い出ばかりだ

そういった挫折のたびに傷つき、己の愚かさに打ちひしがれては何とか立ちあがろうともがいてきた

しかし周囲からは"IQの低いシカマル"  "向上心のない緑谷出久"など、ボンクラの肩書を両手いっぱいに受け渡される日々だった。
人が苦しむのは、望んだものに手が届かないときだと痛感した。


しかしそうして地を這うように生きていたある時、ふと考え方が代わり、途端に灰色一色だった人生が明るく見えるようになった

それが、諦めて全身の力を抜くことだった。



社会の中には「普通の人間、普通の幸せ」という枠があり、多くの人間たちはここに収まるため努力する。が、気がついたら自分はその枠に手の届かない辺境の地まではみ出してしまっていた

ここは不器用村。人間になりきれなかったナマケモノ達がたどり着く最果ての地。

ここの住人は皆すべからく社会の不文律に疎く、
電車の乗り換えを失敗して人を待たせ、割れ物のゴミ出しのタイミングをいつまでも逃し続ける。



しかし彼らはこのはみ出し者の暮らしを嘆いていない。望むことを諦めているからだ。
富、名声、力。多くを得た人間を見ても「自分とは違う世界にいる存在ですし」と割り切ることができる。

そして彼らは悲観しない。他人を羨まずとも自分は自分のいる場所なりの、手の届く位置に幸福があることを知っているのだ。


届かないものは他人事としてすっぱり諦め、手の届く範囲の楽しさを少しづつ探しながらむしっていけばいい。それがナマケモノの矜持である


「人は人、自分は自分」という己が傷つかないための脱力法を習得した現代社会のナマケモノは、イチョウの葉で蝶々を作り、パンを焼きながら悠々自適に暮らしていた。


そんなある日、一本の映画と出会ってしまった。
リアルスティールという、不器用な親子の物語だ。

ラストシーンでは強大で絶望的な力の差がある敵に挑む。勝ち目なんてなく、負ければ多くを失う。だがもう後戻りはできない。

そんな試合の直前、主人公のマックスは微笑みながら言う。

「かっこよく倒れようぜ」

これは負けを見越した諦めの自嘲などではない。今の自分たちにできる全力を尽くし、そのうえで散るならば後悔などないという決意に他ならない。

ナマケモノは衝撃を受けた。自分はかつて確かに人間だった。心に持っていたはずの熱を、思い出したのだ。
本当に望むのならば、どんなにボロボロになろうと全力で手を伸ばし、掴み取るのだ。自分にもそれができた時代があったじゃないか!!

ナマケモノの一念発起だ。

侮るんじゃないぜ、おれは屈強なナマケモノ。己に仇なすものがいるならば、全力の抵抗で迎えてやる。ナマケモノパンチ、ナマケモノキック!

世界一屈強なナマケモノは胸を張り、強い意志の光る瞳で眼前を見据え歩く。イヤホンからはsame ol'が大音量で流れている。

『For you and me
To leave this fairy tale we fucked
'Cause we both need to breathe』


今ならどんなものも恐るるに足らぬ。
全ては己の最大の幸福のため。万象一切を薙ぎ倒すようにずんずんと勇ましく帰宅し、ポストに入っていた高額の納税通知書を開き、全身の力を抜いて全ての抵抗を諦めた

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