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大学生支援用:大学生活でこれだけはやっておけ!①後編  イデオロギーを揺さぶれ!

 みなさん、こんにちは。クジラ8です。

 梅雨が近づいてきましたね。僕の住んでいる地域は、ここのところ雨が降っていません。本格的に梅雨が始まったら、どれくらい降るのか楽しみでもありますが、若干憂鬱でもあります。髪のセットが面倒になりますからね。あと、洗濯物が乾かなくなるのも嫌だ。


 さてさて、最近ふと疑問に思ったことなんですが、大学生のうちに、バイトしとけ! みたいな風潮がありますよね?

 ぼくは、あの言葉には賛成なのですが、大概語られる「人生経験のため」という理由には、あまり賛成ではありません。


 なぜか? 詳しく話すと、バイトは人生経験として実りが少ないからです。しかし、「賃金を得るため」という、理由には大いに賛同します。
 単純な話ですが、大学生活は「モラトリアム」とよく言われます。一般に、「モラトリアム」というのは否定的な意味合いで捉えられますが、僕はこれを推奨したい。

1.労働に抗うことと、労働を捨てないこと

「労働」を神聖視する考え方は、社会では当たり前になっています。これは、18世紀のヨーロッパから引き継がれる一つの「イデオロギー」です。残念ながら、この思想を、現状の社会において変えることは不可能です。何故なら、日本(ある意は「先進諸国」と呼ばれるような国々)は、「高度な消費社会」だからだといえます。

 消費社会とはすなわち、生産したモノが人々に行きわたる社会のことを言います。モノを持たない人はいません。みな、誰かしら社会で生産された「モノ」を持っています。古代から封建社会にかけては、このようなことは珍しいものでした。みな、自分たちで使うものは自分たちで生産し、消費していましたから。

 ただ、自分ではモノ生産せずに、消費だけする人たちはいました。いわゆる「貴族=有閑階級」です。有閑階級という言葉は、もしかしたら聞きなれない人もいるかもしれません。この言葉は、ヴェブレンというアメリカの経済学者が『有閑階級の理論』という言葉で表したものです。難しいことを抜きにすれば、有閑階級とは「消費をするだけの地位」のことを示しています。

 彼、彼女らは、生産を行いません。それは、あくまでも「貴族」というものがあった社会にだけ認められているものでした。また、資本主義下でも、「資本家」は、この有閑階級的な存在でした。(詳述することはしませんが、あくまでも「地位」であり「階級」であるため、資本家はまた別の枠組みで捉える必要があります。とはいえ、資本家の「奥さん」あるいは、「旦那さん」は、有閑階級です。これが、今日に残る最後の有閑階級といえるでしょう)

 労働者は、「ヒマ」を享受することができない。という時代が長く続きました。今でも、これは続いています。特に、これほどまでに長い「労働のイデオロギー」が生き残っていることは、「社会を根本から変える」ことの難しさを物語っています。

 働かなければ、生活が出来ないのが社会です。簡単に社会は変えることができません。とはいえ、「働く」という強迫観念がどこからやってくるのかを把握すれば、少しは明るい方向へと持っていくことが出来るかもしれない。一体、働くという思想は、誰に押し付けられるのか? つまり、誰によって再生産されているのか。

 資本家、というのは少し甘い考えでしょう。根本はもっと深くにある。それは、「家族」であり、「教育機関」であり、「メディア」だったりする。はっきりいってしまうと、世の中のすべての場所で、「労働に向かわせる力学」が働いている。力学を、権力と言い換えてもらっても構わない。とはいえ、「働かない」というのはあまりにも無茶な選択だろう。働かずに生きていくことは不可能に近い。

 ならば、せめて「余暇」の時間をできるだけ長くしよう。と、考えた人はこれまでにも何人かいます。そのうちの一人が、フランスの社会主義者であり、思想家であるポール・ラファルグ(1842―1911)でした。ラファルグの思想を読み解くことは非常に難解です。ただしかし、彼は「余暇を求めながらも、労働を捨てよ」とは決して言わなかった人です。労働時間の短縮こそが、人間の「生」にとって重要であり、「怠惰」こそを奨励しようと訴えた人でした。

 また、近年の政治学者に、ダグラス・ラミスというこれまた「余暇」を重要視する人がいました。彼は、ラファルグと同様に「余暇」を奨励していますが、彼よりもかなり柔和な考え方をしています。ラミスは、「政治について考えるために、余暇が必要」だと説きます。つまり、社会を変えるために「余暇」を重視しようというのです。

「働いていては、社会はいつまでたってもそのまま」=「労働のイデオロギー(または、労働のイデオロギーを支える制度)は変わらない」

 これが、ラミスの主張であり、ラファルグから脈々と受け継がれてきた「怠惰=余暇」の思想なのです。

2.大学生活を有意義に遊べ

 大学生活で求められていることについて、僕は「前編」で「労働力のデザイン」だと言いました。これは、上記の話を交えながら、改めてまとめると、労働力のデザインとは、「余暇をデザインすること」です。それも、主体的に余暇をデザインする必要があります。私たちはふだん、「楽しく生活すること」を至上としながらも、「苦役」を課せられている。

 大学生活で余暇をデザインすることの意義は、「モラトリアム」であるためです。これからの「ライフスタイル」を、自分の「余暇」を中心に組み立てることが、最も肝要なことです。そこから、「仕事」を選んだり、作ったりしなければいけません。結局、「働く」という呪縛から離れることはできません。これは、私たち人間の最も大きな課題だといえます。

 一部では、AI(人工知能)が働き方を変えるという論点があります。もちろん、「働き方」は変わります。ただし、気を付けなければならないことは、「労働のあり方」は変わっても、「労働力のあり方」は変わらないということです。要は、「私たちが意識的に〈余暇〉を重要視する働きかたを選択しない限り、労働のイデオロギーは揺るがない」ということを指しています。このことは、「工業化社会」、「脱工業化社会」≒「情報化社会」という流れそのものが物語っているどころか、人類の創始以来、まったく変わっていないただ一つの事例といえるでしょう。

 AIにこき使われるかは、私には分かりませんが、ひとりひとりが余暇をデザインしない限り、「労働のイデオロギー」が根本を支え続けることは確かでしょう。

 ここから先、アドバイスことはほとんどありません。みなさん各々がやりたいことはあるだろうし、「余暇デザインのテンプレート」なんてありませんから。

3.おわりに

 結局、「私たち」は何をしたらいいの? と尋ねられるかもしれません。方向性としては、労働力を搾取されないために、いくつかの収入源を作るという方法があるかもしれません。「note」もその一つのプラットフォームでしょう。

 また、僕は結果として「思想」を売ることを、ある種のデザインの中心に据えました。やりたいことでもありましたしね。

 僕はいま、思想を語り合う仲間を募集しています。主に、スポーツや余暇を中心に、どうにか「社会」を変えられないかを、考えています。みなさんもぜひ、対話に混ざっていただければ幸いです。


 ではでは、また。



 

 

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