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動きたかった、飛び回りたかった

ふと、気付いた。
気付いたというか、思い出したのかも。

私は、「料理を食べる」より「料理を作る」ことの方が好きだった。

レシピ本は何冊も持っている。これから整理するけれど。
それらの本はほとんど全部、中身を見て、
「美味しそうだな」と思って買ったものだ。

よく見ると「時短で楽ちん」とか、「電子レンジで簡単」みたいな
うたい文句のレシピ本はほぼない。

手間暇かけるのが好きだし、価値があると思い込んでるし、
「作る」工程が好きな表れだな、と改めて思った。

そして、「食べるため」より「作るため」の方が、
自分の中で「大きな目的」になっていたことを思い出せた。

料理は、生活の中でも特に「五感」を使うし、頭も使うと思っている。
複数の料理を作るときは、各料理の彩りや、
味の相性・組み合わせも考えるし、
効率的に作れるよう、段取りも頭の中で組み立てる。
誰かのために作っているときは、相手の好きそうな味を考える。
作ってる最中も、食材や料理道具などの温度や状態を手で確かめたり、
香りが十分に立っているかどうか確認したりするし、
食材に火が通ったか、色が変わったか、なんかも音や目で確かめたりする。
そして加えていく調味料を見ながら味を予想し、
なんとなくの感覚で多少加減したり、レシピにはないけど
「加えたら絶対美味しいだろう」と思うものを足したりと、大忙しだ。
だけど、「頭で考えてばかり」ではなく、
「動いて感覚で判断」しているから、楽しいし、没頭できる。

改めて料理のように「感じながら手を動かしていること」を
思い出してみると、他にも思い出せたことがある。

「頭で分かることなんて、たかが知れている」ってことだ。
当たり前のことなのに、すっかり忘れていた。


「心で感じる」のがつらくなって、閉ざして、
一生懸命どうしたらいいか「頭で考えて」、
それも頭打ちになって「無気力」になって。

学校の勉強は「頭で考え」ればできたし、
それが「いい評価」だったから多少の自信を持ち。

だけど「人と関わる」ことは相変わらず「心を使えず」に、
「頭で考え」てもしょうがないから失敗ばかりで自信を失い、
社会人になって「頭で考え」ても上手くいかないことばかりで落ち込み。

「頭で考え」てなんとかしようと思って、食事をコントロールしたら、
感情も感覚も置いてきぼりだったから「摂食障害」になり、
「頭で考える」ことも「心で感じる」ことも自信をどんどんなくしていた。

それでも、「頭で考え」れば、多少なりとも解ける問題があるから、
それにすがって、「価値がある」と思い込んで、進んできていた。

ほんと、馬鹿だなと思う。頭なんて、ちっぽけなのに。

動いていけば、感覚も感情も震わせて、経験もして、
それらをダイレクトに受け止めて、沢山の情報量で試行錯誤できるし、
それが楽しいってこと、忘れていた。「忘れているフリ」をしていた。

「忘れているフリ」だから、根っこは覚えていたと思う。
なのに色んなところで私はその「動きたい」気持ちを抑えて、
出さないように、、、と隠そう隠そうとしていたんだと思う。

隠そうとしているのは「頭の判断」だから、
それよりもっと大きな「心」のことを隠しきれるわけがなくて。

「動きたい」「試行錯誤したい」に加えて、
「手間暇かければ価値がある」も上乗せされて、
きっとそれらは普段の仕事でも、誰かと関わるときや、
一緒に行動する時も、自分の頭では否定してるから
認識できていなかったけど、ドロドロと漏れ出ていたと思う。

特に仕事の場では、求められるのは
「決まった通りに動くこと」「セオリー通りに動くこと」
「ビジネスとして考えること」だったりもするのに、
自分の「考えたい」「試行錯誤したい」「動きたい」を抑えきれなくて
「勝手に考えて判断して動いていた」りしたと思う。

誰かと関わるときも、相手は「簡単なもの」を求めていることもあるのに、
「こねくりまわして必要以上に動いた」りして、
「気遣わせた」り、「要らない」と言いにくくしていたと思う。
実際に、指摘してもらったことがあるが、きちんと理解できていなかった。

本当は「動きたい」のに、無理やり抑えているから
そんな風になってしまうのは当たり前だけど、
関わる人達、つまりは「された方」からしたら迷惑だな、と思う。

本当に、勝手に自分の頭で決めて、抑えつけるなんて、するものじゃない。

思い出せてよかったし、
同時に、本当に迷惑をかけていたことに申し訳ない気持ちになる。

自分のしたいこと、好きなこと、楽しいことを認識すること、
自分をよく知って使うこなすことは、必要なことだと改めて思う。

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