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今思えばあの家は地獄だった

30数年前、快晴の日なんて年に数日しか見られないような、どんよりとした空ばかり見上げなきゃいけないような北陸の地で、私は産声を上げた。

家族構成は父・母・祖母。唯一生まれた一人娘が私。住んでいた家は父の実家だった。

家は曽祖父の代から続く古い古い木造で、屋根はトタン作り。間取りは3Kと言ったところだろうか。自営業を営んでいたのでうち1部屋は仕事場だった。そのため祖母の部屋、父母と私の部屋、居間と狭い狭い台所と風呂があるくらいの家だった。

台所も狭く大人1人が立てるくらい。風呂も狭小で、浴槽は真四角で大人は膝を折らないと入れないような小ささだった。洗面所も狭く無理やり洗面台を置いてたので、二層式の洗濯機しか置けなかった。

父は4人兄弟の末っ子で、兄が1人、姉が2人いた。上の兄と姉は戦時中に生まれ、その下の姉は第二次世界大戦の終戦から3年後に、自分は終戦から4年後の、世の中がアメリカ経済に飲み込まれていくような混沌とした頃に生まれた。

あんな狭い家に私の曽祖母・曽祖父・祖父・祖母・兄妹4人で過ごしたのだから、それは苦痛だったんじゃないかと思う。

父はその中で、兄妹差別をするような気性の荒い祖母に厳しく当たられ、末っ子として兄姉や祖父には甘やかされて育ったようだった。

高校卒業とともに家業を継いだが、差別されていた兄にコンプレックスがあったのか、それとも世間知らずで無知だったのか、はたまた両方か、プライドばかり高くて、人の話は聞けず、寄り添えず、「自分の意見は正しいんだということ」ばかりを主張するような器の小さい人だった。

趣味は酒、ギャンブル(麻雀・パチンコ)で、見栄を張って同業の仲間や後輩によく奢り、身の丈に合わないような洋服や家電をよく買っていた。

誰かに指摘されるのが嫌いで、飲み仲間はいても友達と呼べるような人はいなかったように思う。同業者の多くは数名の社員を雇い会社にしたり、組合で仕事を渡し合っているようだったが、家に人が来ることはほとんどなかったし、仕事が終わればパチンコや麻雀や飲み屋にいくような毎日で、人に頼ったり、うまく付き合ったり、腹を割って話せるような人がいるようには見えなかった。

一人娘が何かに困って相談しても、理解ができず、話も聞けずに「自分の考え」を話し、意見を言ったことで「満足」しているような人だった。

「気持ちを分かってもらった」と感じたことや、安心感や頼りがいを感じたことは、頑張って頑張って思い出してみたが、どれだけ記憶を漁っても見当たらない。

センター試験の前日に焦って不安で勉強している時に、「晩御飯を作れ」と言ってくるような人間だ。「そんな余裕がない」ことを伝えても、「そんなの大丈夫だから作れ」と言ってのけるような人の気持ちのわからない男である。

また、私が大学生になって居酒屋でバイトするようになり、深夜0時閉店だったので締め作業をし、ようやく終わった0時過ぎに電話をかけてきたので出てみたら、「親の誕生日に帰ってこないで何をしている」というような世間も何も知らない娘に依存した気持ち悪い男だった。誕生日なんてすっかり忘れていたし、だとしても周りが仕事してる中「親が誕生日なんで帰りますね」なんていう訳がないのに、バイト中で帰れないことを伝えたら拗ねて怒っていた。めちゃくちゃ気持ち悪いな、書いてて。

そんな人間に「安心」も「信頼」も「信用」も「頼りがい」も感じられる訳がない。

毎日タバコを2箱吸うようなヘビースモーカーで、毎日缶ビールを3〜4缶、ウイスキーや焼酎をロックで3〜4杯飲んで酔っ払い、子供が横に寝ているのに寝タバコをして枕元をタバコの焦げ跡だらけにするような、それでも大いびきをかいて寝られるような、何も考えなし、自分のことしか考えていないような男だった。外で飲んできた日は枕元に洗面器を置いて吐いていることもあった。娘が寝ている隣で、だ。

母親は母親で、死ぬほどタチの悪い「アスペ女」だったと思う。アスペだからタチが悪いんじゃなくて、タチの悪い「アスペ女」だ。

母の笑っている顔はほとんど見たことがないし、小さい頃の写真を見ても口は微笑んでいるが目は全然笑っていない。寂しそうで、もの悲しそうで、「陰」で女をよく知らない男を惹きつけるような感じがある。

一般的な家事や料理は一通りできるが、基本的に無口で話さないし、自分に都合が悪くなると黙って目を合わせなくなる。何を考えているかも話さないし、かと言ってはっきり謝ることもない。

母は同じ北陸の、さらに「ド」がつくような田舎に三姉妹の長女として生まれた。母方の祖父はよく酒を飲み、あまり働きもしないクズだったようだ。祖母は田んぼでは米を作り、畑で野菜を育て、時には近くの工場で働き金を稼ぎながら三姉妹を育てるような気の強い人だった。

頭の回転がそんなに早くない母は、そして、そんな気の強い祖母に「長女」の重圧をかけられた母は、きっと辛い少女時代を過ごしたんじゃないかと思う。そして、「祖父(母の父)」に助けてほしかったのに、そいつもクズで願いが叶わなかったんだと思う。母はずっと「自分の父に、父の代わりに男に助けて欲しかった」のだと感じる。

助けてほしいのだから、たとえ娘であっても守ることができなくて、娘の寝ている横で寝タバコをして枕元を焦げ付かせるようなクズ男に注意もできず、何も言えず、逆にクズ男が嫌すぎたのか、クズ男の隣に娘を寝かせていた。

人の気持ちが分からなくて自分の意見を押し付ける世間知らずなバカ男と、人の気持ちが分からなくて自分の気持ちを話さず、隠しごとばかりして普通ならできないこともできてしまう女の相性は、最悪で最高だった。

自営業で、世間知らずで見栄っ張りな男の家計を任されていた母は、父の散財に手を焼いていたようだ。

そしてそんな母の家計管理への不満を、父は何時間も怒鳴ったりものを投げつけたりして改善を訴えていた。しかし、「人の気持ちのわからない母」に、「頭の悪い母」に、「男に守ってほしい母」に、怒鳴り散らしたって効果がある訳がなかった。寧ろ、逆効果でしかなかった。

父が母に当たり散らしていた内容から聞き齧っただけだが、母は祖母の着物や貴金属を勝手に売ってお金にしたり、父の生命保険を解約してお金を作ったり、会社の金を横領して家計の金を作っていたらしい。

世間知らずの父親が話すことだから、何が本当で何が嘘で、現実にはどこまでのことをしたのか全く分からないが、母もとにかく「クズ」で、保身のためなら後先なんて考えずに「普通の人間ならやれないことを平然とやってのける」人間なのだ。

母は私の「世話」はしていた。食事は作り、好物を弁当に入れ、時には一緒に料理をし、洗濯をし、必要な身の回りのものは買ってもらった。

あまりにも父親も、実は祖母も「怒鳴る女」で、クズ過ぎる人間しか家にいなかったことと、父と祖母の「怒りと悲しみの怒鳴り声」がキツすぎて、そして「母の呪い」で、「ただの世話」を愛情だと勘違いしていたが、よく考えるの母のその一つ一つの行為はなんてことがなかった。

私の好物がなんで好きか、どんなふうに好きかなんて考えてもらったことはなかったから、いつも同じ「好きだと言った食材や料理」を作るだけだし、「これがほしい」と言ったものを「好きだと言ったから」と言って続けて買ってきたりしていただけだった。

あの女は私に興味なんて一つもなかったし、ただ本当に「世話」をしていただけなのだ。これを愛情と勘違いしていたなんて私も大概「馬鹿すぎた」のだ。

私はこんな「クズ」と「クズ」の間に、「毒親」と「毒親」の間に生まれた。

どれだけこの生い立ちを、過去を整理できるか、「反面教師」にして自分の糧にできるか。

本当に大切なことを知り、実践できて、自分と他人を大事にできるか。そのために、ここに書き記していく。

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