見出し画像

ふわり #6

その日、彼―――小林敏樹としき―――は、来月の国際学会での発表の準備に追われていた。

あの事件―――無限ループする階段―――の以後は、特に奇怪な事件に巻き込まれることなく、研究に明け暮れる日々を過ごした。
博士号を取得したのちも実績を積み、今や准教授だ。彼の研究実績や所属研究室の教授の年齢も考えると、後継者となるのも時間の問題であった。

とまあ、傍から見ると順風満帆な研究者人生に見えるが、何の不満も無いわけではない。本当は研究に没頭していたいのだが―――自らのプレゼンスを向上させることも、研究者として、その分野を牽引していく者として、重要な仕事であることは、頭では理解しているつもりだったが―――不満を拭い去れずにいた。

彼の研究はその界隈では認められつつあった。そのため、招待講演の依頼も多く、学術雑誌への寄稿、インタビュー、教育系のTVやラジオへの出演など、メディアへの露出も増えていた。使命感もあり、断れないうちにそうした仕事―――と呼べるのか、彼自身疑問を感じている、作業―――は膨れ上がっていき、次第に本来の研究に割く時間は減り、研究の進展が鈍化していくのを感じていた。自分は何のために機械のように忙しく働いているのだろう―――生きている実感が薄れていく。虚無感が自分を覆いつくしてしまうような感触。

彼のもう一つの懸案事項は、あのアタッシュケースだ―――あの日以来開けていないが、当時の記憶では、中には多額の現金が詰まっている。少なくとも数年、いや、10年近くは不自由なく暮らせそうな額のはずだ。

それを思い出すたびに、何もかも投げ出して遠くに行きたい衝動が彼を襲った。しかし一方で、彼の理性がギリギリのところでそれを食い止めるのであった。そんなことをしたら今までの努力が台無しになるではないか、と。
そんな、逃避してしまう自分が嫌だったし、あの時、この金の処理を保留した自分を情けなく思った。今は雑念に囚われている余裕はないのに、自業自得だと自分を責めた。

その雑念を追い払うため、ひとまず目の前の発表資料を一通りまとめあげ、一息つこうと椅子を立とうして、ふと窓際に目をやった瞬間、彼の背筋は凍り付いた。冷や汗が身体の側面を伝うのを感じる。それはどうやら、止みそうにない。


自宅に置いてあるはずの例のアタッシュケースが、そこにあった。


彼の心の隙につけこむように。今、一番見たくなかったものが、もはや、暴力的な、という表現以外に形容できない威圧的な存在感を放っていた。

誰から言われるでもなく、「これ」からは「もう」逃れられないのだ、というメッセージを認識した。タイムリミットが来たのだ、と悟った。

さてどうしたものか。このままここに置いていてはいずれ研究室の同僚の目に晒されることになる。まずはどこかに移動させなければ、と考えた。とはいえ、どこに移動させるかのアイデアは、全く無い。

彼は恐る恐る近づき、持ち手に手をかけた。

その瞬間、強い磁石のようにその手は持ち手に引き寄せられ、離れなくなった。自らの意に反して握りしめられた持ち手を見て、敏樹の鼓動は速まっていた。どういうことだ?今起きている状況がうまく呑み込めないうちに、今度は急速に身体が浮いていることに気づいた。助けを求めようにもこの部屋には自分しかいないし、このショッキングな状況に声を失っていた。叫びたくても叫べず、ただ口を曖昧に開けたまま、自らの口の中が乾いていくのを感じていた。

そうこうしているうちに、身体は天井に近づいていく。しかもかなりの速さで、加速度的に。このまま激突してしまうのか?純粋な恐怖が彼を襲う。
しかしそれは、ある意味で、杞憂だった―――彼は天井を「すり抜けた」。まるで自分と天井は異なる次元に存在するような妄想―――と言えるのか、現実に起こっていることに対して―――が頭をよぎる。

ただし、天井に激突しなかった安堵感よりも、自分の実体の所在の不確かさの不安感が上回っていた。いま自分は、どこにいるのか?そもそも、今の自分は、「生きている」と言えるのだろうか?
これが生きていないということだ、どうだ、今の気分は?お前が日々の生活で感じていた虚無感など、大したことではないだろう?と、誰かに問い詰められているような気がした。今起こっている一連の事象には、少なくともそういう意図が込められているような、根拠のない確信のようなものがあった。少なくとも、数年前アタッシュケースを拾ったときのような、誰かわからないあの声は聴こえてこなかった。この理解不能な現象だけが淡々と進んでいく。それもまた、自分に向けられたメッセージなのか。

彼の部屋は最上階なので、すり抜けた先は屋上だった。まあそれは物理的な解釈が可能な現象だった。ーーー何故浮いているかは別として。
身体はまだ、どんどん上昇していく。夕日が眩しい。どうやら、自分に気づくものはいないようだ。

屋上よりも高いその位置から、彼は街の様子を俯瞰して見ることができた。ただ、違和感があった。週末の夕方で賑わっているはずの飲み屋街は閑散としており、まばらに道行く人々は皆マスクをしている―――花粉の季節でもないのに。まあ、秋花粉はあるかもしれないが、こうも皆マスクをしている世界に、禁じ得ない違和感を感じていた。

そうこう考えを巡らせているうちに、上昇の速度が少しずつ遅くなり、やがて止まった。随分と高いところまで浮上したようだ。少し空気が薄いような気がして息苦しい。

すると突然、アタッシュケースが開いた。現金が落ちるのではと咄嗟に取手を握らされているのと反対の手を伸ばしたが、中には現金は無かった。代わりに、真ん中、にただ一つの金属製のスイッチのようなものが固定されているのが見えた。

次の瞬間、次第に下降していくのを感じた。降りられる安堵感もつかの間、次第に加速していくではないか。どうやら自由落下らしい。全身に当たる空気が汗を冷やし、寒気を覚えた。

そして再度屋上が見えてきた。またすり抜けられるのか?―――直感的にそうではない気がした。
何か変化を起こさないと、自分はこのまま屋上に激突する―――
変化とは何か?今考えられるのは一つしかない。目の前のボタンを押すことだ。
この経緯自体が、意図的に仕組まれているような気がしてならなかったし、あまりの選択の余地の無さに、正直、納得がいかない。しかし、屋上の床はどんどん近づいていく―――

落下の恐怖感を背に悩んだ挙げ句、結局、床スレスレのところで彼はスイッチを押した。

すると、今までの加速度的な落下速度が嘘のようにゆっくりとなり、彼は、すとん、と、柔らかく、足から屋上に着地した。

安堵感もつかの間、身体に疲労感がのしかかり、鉛のように重い。敏樹はしばらく目を閉じ、膝に手を置き、身をかがめ、倒れ込んでしまいそうな身体を何とか支えていた。今倒れてしまったら、二度と立ち上がれないような気がした。激しい鼓動が落ち着いてから目を開けると、そういえば、先ほどまで握っていたはずのアタッシュケースはそこに無かった。ずっと握りしめてただ汗だくになったその手のひらを開き、しばらく見つめていた。

すると、ほどなくして黒い雲が空を覆い、小雨が降り出してきた。彼は屋上のドアから屋内に避難した。先ほどまでいた自室の机に戻り着席すると、耳をつんざくような雷鳴が鳴り響いた。そして、部屋が暗くなった。どうやら停電のようだ。

窓から見えるビル群の窓々にあるはずの灯りは消え、黒々とした無数の四角の羅列がこちらを見つめていた。この大停電で、大学構内は少し騒がしくなってもおかしくないはずだが、ただ静寂だけがそこにあった。自分だけが取り残されて、このまま世界が終わりそうな妄想が頭をよぎった。

しかし、ほどなくして再度ビル群に明りは灯り、窓から外を見下ろすと、通りはにぎやかさを取り戻していた。マスクをしている人は見当たらない。

あの人通りの少ないマスクの世界―――仮にそう呼ぶ―――は何だったのだろうか。帰り道、考えても考えても結論は出なかった。

自宅に帰ると、いつもの場所にアタッシュケースは置いてあった。まるで何も知りませんよと言わんばかりに。ただし―――雨ざらしになったかのように、それは濡れていた。確かに先ほどまで握りしめていたアタッシュケースなのだろう。

おそらくこのアタッシュケースの謎には、やはりこれからも挑み続けねばならないのだろう―――それだけは分かった気がした。これは覚悟であり、宿命なのだ。そもそも挑むためにこの街で生きることを決めたではないか。これを避けたければ、あの日、これを拾うべきではなかったのだ。
ただし―――思い切って再度それを開けることになるまでには、また数年の歳月と、ある「きっかけ」を要することになるのだった。


(終)


関連するお話―――もしよろしければ下記もどうぞ


もしよろしければサポートお願いいたします。 創作活動費に充てさせていただきます。