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苦労を積み重ねても幸せには変わらなかった。ただ自分が壊れていくだけ

苦労して苦労していっぱい辛い思いをして
それが積り続ければきっと幸せになれると信じていた。
苦労を重ねれば人は評価しついてきてくれると思っていた。だけど一向に訪れない幸せ。ずっと後ろには苦労がついて回り、周りは評価されて自分ばかり取り残されている。

何故だろう?何故こんなに苦労をしているのに
自分ばかり幸せになれないのだろう?何故適当に楽しそうにしている人が幸せ手にできているのだろう?

自分の何が間違いだったのだろうか…

苦労が美徳だと昔から日本では言われて来ました。
苦労は若いうちから買ってでもしろだとか、苦難を乗り越えた先には幸運が待ち受けているだとか。ずっと僕たちは苦労は素晴らしいものだと信じて生きて来たのですが。

果たして苦労をすることが正しいのか?
とふと考える事があります。
確かに苦労をすることによって例えば人の痛みや辛さ、世の中の理不尽さやおかしさに気が付くことが出来るメリットがあります。人は痛みを知らなければ人の痛みに気がつくことが出来ないといいます。

ただ、じゃあ苦労をし続ければ自分は幸せになれるのか?と言われるとNOです。100%幸せになれません。
例えば物凄く嫌で仕方がないスポーツを無理やりチームに入れさせられてゲームをしないといけない。
ゲームが終わった後は貴方は幸せだったと言えるでしょうか?答えはNOです。全くもって楽しくなかったとか、ボールに触れる事が出来なかったとか、疲れたとかそんな感想しかありません。とてもじゃないですが充実したとは言えませんね。

そのスポーツの最中も「疲れた」「何でこんな事をしなければいけないのか」「早く終わればいいのに」「面白くない」「むかつく」というネガティブな思考でいっぱいになります。とてもじゃないですが幸せとは言えません。

実は日常生活でも同じなんです。
嫌だ嫌だというものを兎に角やり通す事が正しいことだと思い込み、そして周りも評価をしてくれるはずだと思う。
だけど当の自分の感情は何一つ充実しているとは感じていない。お腹の中で悪態をつきまくって、それでお終い。
何一つ楽しいことも無ければ得られるものがなかったとすれば嫌な思い出しか残らない。
嫌でもやっている内に楽しくなって「なんだこれすっごく面白かったじゃん」となれる事もあるのですがね。

だからやってみて自分に全く合わないというものは
我慢せずに放棄してしまえばいいと思うんです。
制作や企画が好きな人に商品の営業を任せる様なものです。人と向き合う仕事が苦手で手先等がいいのに営業に回されている。自分はここでは才能を発揮出来ないと思うのならやめてしまえばいいと思うんです。

周りが見ているから、周りが苦労すれば評価してくれるから、周りはみんな苦労してるから等という言葉は自分を喜ばせないしそれは他人本位なんですよ。

世の中は学びの場とも言いますが、それと同時に楽しむ場でもあるんです。楽しく無ければ続かないし喜びを感じるためには楽しめないといけない。
自分に只管ムチを打って自分の心を奮い立たせたとしても、後々になって打たれた部分が痛み出す。

競馬で走る馬だって別に走りたいから走っている理由でもないし、かと言って勝負に勝つために走ってる理由でもないかもしれない。人がまたがってムチを打って早く走れと命令するから、仕方がなく走らされているだけなんですよね。

でも彼らにはそれしか道が用意されていない。
有名な馬の掛け合わせで産まれた馬は、人に過剰に期待されて、若いうちから走る事を強要されて、物心がついた頃には順位という優劣をつけられて、上手くいけば褒められる、上手くいかなきゃ叱られる。挙句の果てには走れなくなれば終わり。

どうですか?楽しそうな人生だとは言えませんね。
苦労に苦労を重ねて、それが彩り豊かな幸せになれるほど甘くは無いんですよ。苦労という物がモノトーンの配色であるのならカラフルな華は咲かせません。
綺麗な彩りを飾るならば楽しいと思えること、嬉しいと思えることを増やす事でしか得ることが出来ないんです。


じゃあどうすればいいか
楽しい事をすればいい。楽しい事を続けると自分の中に幸せなオーラが貯まるんです。それが自然と大きなパワーを産んで、顔が変わってイキイキとして周りもそれに釣られて楽しくなってしまう。
それならば幸せに近づくことが出来ますね!すんなりと幸せを得られてしまうんですよ。
もしそれでも苦労があったとしても、それすらも楽しめてしまう。何故ならば楽しくてしょうが無いから。

イチロー選手も浅田真央ちゃんも大谷翔平選手も
みーんな苦労をしてきた。
でもその競技が好きすぎるからそれは苦労ではなく楽しみだった。時につまずいて嫌になるときもあるけれどそれ以上にこれが好きで堪らなきゃまた挑戦できる。


それを苦労は買ってでもしろという本当の意味なんだと思う。

1ミリの面白くないものは苦労ではない。ただの苦しみ。
苦しみは苦しみを呼んで苦しみしか残らない。
でも楽しい事の苦労はその先に幸せを呼んでくれる。

その言葉をきっと誰かが間違って認識をし
今の現在の姿になったのだと僕は思う。
僕だって住む家がなくなって、水が止められて近所の公園へペットボトルを山程車に積んで取りに行った事があるけど。なんだか途中でおかしくなってきて、楽しくなって来たんですよ。あぁ不便て面白えな!水が出なくても取りに行けば良いんじゃないか?してやれない事など無いじゃないか?よし次はどうやって辛いことを乗り越えてやろうか?上等じゃないか?自分はどんな状況でも生き抜いてやれると思ったんです。

純粋に楽しいと思ったから乗り越えることが出来た。

本当に楽しくなくて不安に押しつぶされて嫌になってたら
きっと今の僕はここにはいなかったと思います。


貴方が嫌だと心底思う事を続けるのは苦しみ
楽しいと思うもので苦労をすることは喜び


似ている様で全く違いますね!


自分が楽しい事を率先してやろう
誰も何も言う権利はないです。
誰かに取られる事もない。
泣ければ少しづつ見つける
見つかれば儲けものですね!

それではまた👌👌👌👌👌👌👌👌

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