Merry Christmas in Boston.

 ホリデーシーズンの喧騒とはうってかわって、ボストンは静かなクリスマスを迎えていた。早朝、人気のないボストンコモンでは、電飾の消えたクリスマスツリーが寂しげに僕を見下ろした。夏には沢山の市民がくつろぐ美しい芝生も、昨日積もったと思われる雪の下で今は見えない。公園名物のホームレスの姿さえもない。皆シェルターに行っているのだろうか。

 公園を後にして、ウインターストリートを南へ。冷たい石畳が続く。分厚い手袋をした両手をさらにポケットの奥深くに押し込んで僕は歩く。息が凍る。ブーツの中の指が悴む。

 この街に来るまでは、「耳当て」の存在意義を知らなかった。女性の可愛らしいファッションアイテム以上のものではないと思っていた。冬のボストンでは耳当ては必須のアイテムだ。つけていないと耳を失っても気付かない。この世に意味がわからないものが沢山あるが、それは知識と経験が足りないせいだ。留学で得るものは学術知識だけではない。

 それにしても静かだ。まるで街全体が祈りに包まれているようだ。サマーストリートに入り、「メイシーズ」の前に来ても、すれ違う人はまばらで、僕と同じく英語が母国語でない人ばかり。クリスチャンは皆自宅で静かな時間を過ごしているのだろうか。

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 僕が通ったカトリック系の学校には、「聖書史の時間」というのがあった。外国からやってきた「ブラザー」が聖書の素晴らしさを語る時間だ。「ブラザー」は「シスター」の男性版で、校内の「ブラザーハウス」の中で集団生活し、祈りの日々を送っている。受験に関係のないこの科目、育ち盛り、眠い盛りの中高生にとっては、格好の「休養の時間」だった。「授業を聞くものが一人もいない」というのが憐れに思えて、僕はその時間極力起きているよう心がけた。誤解を恐れずに言えば、キリスト教精神、隣人愛から授業を聞いてたと言ってもいい。

 ブラザー・スミスは心の温かい、純粋な人だった。だが、僕は早々につまづいた。まず、「原罪」という考え方が理解できなかった。はだかんぼうの男と女がリンゴを食べたからって、なんで人類は代々その罪を背負って生まれてこないといけないのか?生まれたての赤ん坊になんの罪があるというのだ?今にして思えば、これはいかにも青い、理解力も想像力も足りない中坊の考えではあった。

 僕はブラザー・スミスに論争を挑んだが、優しい彼は、「それも大事な疑問だ」というばかりであった。反発した僕は、「『愛とは何か』を英文で提出せよ」という課題に、「宇宙刑事シャリバン」の終わりの歌を英訳して提出したが、ブラザー・スミスは”Your soul is very close to God.”とかいう評価と共に満点をくれたので、ますます信じられなくなった。今にして思えば、課題を提出したのが僕だけだったに違いない。

 学年が上がり、「聖書史」の授業の担当が変わると状況はますますひどくなった。授業を担当するブラザーが足りなかったためか、近くの教会の神父が駆り出されて授業を担当することになったからだ。ここで「悪の力」という概念が提示され、僕は混乱した。

 学生にわかりやすくする為かもしれないが、「近くのお弁当屋には不幸なことが沢山起きた。悪の力が強かった為である。」。これだけならまだしも、「このお弁当屋が屋根に十字架をつけると、悪の力は跳ね返された。」などと言う。神父はお弁当屋の絵と十字架、悪の力が跳ね返される様子を矢印で表現し、板書した。「いくらなんでもこれはないだろう。」が僕の感想だった。

 学生の中にキリスト教を理解したものはほとんどいなかった。大半は最初っから聞いていないため、一部は僕のように考えすぎて反発したため。理解していたのは、元々カトリックの家から来た数人の同級生だけだった。彼らは洗礼を受け、「フランシスコ」などと言う聖人の名前を授かった。日本人がなんでフランシスコ?とそれすらも嘲笑の対象となった。僕たちは皆、子供すぎたのだ。世の中を分かった気になっている、生意気で、苦労や悲しみを知らない子供だった。ただ僕は、讃美歌のメロディーは好きだった。

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 まだ眠っているような静かな街を無宗教の僕が行く。耳当てをし、ポケットに手を突っ込んでひたすら歩く。”Happy holidays!”と書かれた無数ののぼりとショーウインドーのデコレーションだけが、この日が待ち望まれた日であることを告げている。

 祈りとは、共同の幻想のようなものかもしれない。同じ温かな幻想に包まれながら、親しい人とこの寒い朝を迎えた人たちは幸せだ。その「共同の幻想」から弾かれたエイリアンである僕でさえ、祈りに包まれたこの街で、この日だけは、皆が幸せであることを願わずにはいられなかった。それともこれは僕が空気を読む日本人だからだろうか?

 時計塔が見えてきた。まもなくサウス・ステーションだ。ニューイングランドの鉄道輸送の要である石造の駅。それすらも今朝は静まりかえっているように見えたが、近づくと、金色に縁取られた正面玄関の下に人影がある。

 大きな男が二人、正面玄関のすぐ横で取っ組みあっていた。二人は酔っ払ってるようだった。驚くほど静かな取っ組み合いだった。どうやらホームレスだ。この寒さの中で暖を取れる酒を巡って争っているように見受けられた。彼らもまた、幸せな共同の幻想の外にいて、この寒さの中で生きることに必死な人たちだった。貧しくて弱い人たちだった。

 もう一人にのしかかろうとしている男に後ろからしがみついた。驚くほど力がなく、簡単に引き剥がせた。その弱さがやけに悲しかった。酔っているせいなのか、お腹が空いているせいなのか。この朝、ほんの少しの酒を巡って取っ組み合わざるを得なかった二人に、哀れみと慈しみの気持ちが湧いてきた。

 凍てつくような寒さの中、僕は叫んでいた。
 “Chill out! It’s Christmas day!”

 僕はこの瞬間、誰よりもクリスチャンだった。

(了)





いつもコメント欄でお世話になっているお礼に、アリエルさんの筆になるイラストを使わせていただきました。ありがとうございます。

と書いていましたが、「お礼に使わせていただく」っておかしいですね。勝手にコラボしたかっただけです。二度搾取しているみたい。素敵な画像を使わせて頂いて、重ねてありがとうございます。無断使用すみません。



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