炎上するAI廃墟写真集のタイトルパクリ問題について

Yukiさん側からの声明が出たため、今後の進展は無いものとして、本件記事はこのテキストを最後にしたいと思います。

Yukiさんの質問への回答は、はい・いいえではなく主張として文章でされたようです。確かに、こちら側から見れば、出版社側の姿勢はあくまでも強気であり、根拠があってイチャモンつけとんのかワレというようなニュアンスにも取れます。良く言えば毅然とした対応。

YUKIさんサイドの主張
写真集のタイトルは自分のブログ名のパクリであり、読者が自分と関係のある本だと思われるので困る。本当に作者は「Ruin's Cat」を使っていたことがあるの?しかも内容はAI廃墟画像なので、そうなるとAIでブログの写真が学習されていないかも気がかりになってくる。事実の確認がしたい。

出版社サイドの主張
同名になったことが意図的だろうと意図的でなかろうと、そもそも法的な問題はないのでその主張はお門違い。タイトルを変えるなどの譲歩はすることはできないが、献本するからこの件でこれ以上イチャモンつけるのはやめてほしい。当社としてはそれ以上なにもおもねる必要性を感じない。

上記は私の主観的な解釈も混じっていますが、そもそもニュアンスやトーンなどは、やりとりの文面だけみても再現不可能な機微であると思うので、あえてレンジを狭めて両者の意図や主張をわかりやすくしたほうがメリットがあると考えました。

今回のことを踏まえ、私の大雑把な性格に合わせ、総括してみます。

おおまかな経緯

AI廃墟写真集 『Ruin's Cat』が発売される。(2024.7.24)

廃墟写真ブログ -Ruin's Cat-のブログ主YUKI氏が、明らかにこれはタイトルをパクっていると非難。無関係を主張。(2024.7.24)

炎上騒動

監修の栗原享氏
作者のAI廃墟 / UME氏、弁明し謝罪 (2024.7.26)


出版社&YUKI氏「話し合いの機会が設けられる予定」(2024.7.26)

YUKI氏「発売をひとまず中止し、納品をストップすると連絡があった」(2024.7.30)

延期していたAI廃墟写真集の発売日を改めて9/24にすると発表(2024.8.30)

YUKI氏「話し合ったが一方的に話を打ち切られた」と投稿(2024.8.31)

炎上の争点・問題点

争点

  • タイトルはブログ名の意図的なパクリなのか

  • 同名のブログが存在することを出版社サイドの人間は本当に認知していなかったのか

  • AIで同名ブログの写真を無断学習したのか

問題点

  • 法的に問題ないとしても同じ廃墟というジャンル内で同名のものが既出である限り、モラルに反した行為ではないか

  • 話し合いは決裂したようだが、結局どちらに非があるのか

  • そもそものAI廃墟写真(ひいてはAI画像)についてのコンテンツの是非

他にも様々な意見が飛び交っていますが、今回はこれらを軸に考えていきたいと思います。
ここからは私の個人意見です。

考察

争点1
タイトルはブログ名の意図的なパクリなのか

これについては真実は確かめようがありません。
しかし、作者と監修者の言葉を信じるのであれば、意図的なものではないということです。これに「いやいや明らかに意図的なパクリだろう」といえば、単なる水掛け論にしかなりません。実際なってます。

では”意図的にタイトルをパクって出版する”という動機の面から考えてみましょう。動機、つまりメリットを考えなくてはその疑惑の辻褄は合いません。メリットとしてはYUKIさんの読者を勘違いさせて買わせるという優良誤認のようなものが考えられますが、果たしてこのような炎上をしてもそれを貫き通した態度を見るからに、ありえるのでしょうか。
発売前にその優良誤認はこれだけ解けているのですから、ネット上ではかなりの割合でその線は消えています。本屋で見かけて購入するという方も一定数いるかと思いますが、この時代どれだけの人がタイトルだけ見てあのYUKIさんが関係あるのかと考えて購入するでしょうか。AI廃墟という部分や著者や監修の名前を無視して、買うでしょうか。関係を疑ったとしても、購入前にネットで検索しますよね?とかなんとかいくらでも出てきてしまうのですが……。

もう婉曲的な話はやめましょう。
私の目にははじめから、タイトルをパクって出版するメリットが皆無であるというふうに見えています。
そんなのあるわけない。
これだけ炎上してそれでも変えないメリットなんかあるわけ無いんですよ。むしろデメリットだらけですよ。

よほど穿って見れば、タイトルを変えないで発売することでさらに炎上は加速し、炎上商法的な注目は上がると思います。
出版社への信頼とか、いろんな株は落ちると思いますが。それを補って余りある利益があるのでしょうか。
そのへんのビジネスの利害関係のことは私にはわかりません。

争点2
同名のブログが存在することを出版社サイドの人間は本当に認知していなかったのか

これも認知していたかどうかは確かめようがないので、そもそもここを追求しても仕方ない話ではありますが…どうやら皆さんここが気がかりなようで。
私個人の感想を加えるとするなら、認知していたとしても別にいいんじゃね?です。

例えば私が写真集を作るとしてタイトルを「水のないプール」にしようと考えます。一応、同じタイトルの作品があるかどうか検索をかけます。すると、映画や音楽のタイトルに既に同名のものがあるとわかりました。しかし私はだからといってタイトルを変えたりしないでしょう。もちろん法的にクリアな状態であれば、です。

理由は簡単で、私がそのタイトルをつけたいからです。その決定権は私にあります。もちろん、被らないタイトルを再考しようとする人も多いと思います。しかし、そのどちらも自由です。映画の監督や音楽の著者からパクリだと非難されたとしても、私なら変えません。変える必要がないからです。
しかしその変える必要性というものをみんなで訴えているのが、本件の炎上騒動の骨子というわけです。

変えない理由を追記すると、本の内容が被っていたらそこで初めて変える理由が出てくると思います。もう書いてる人がいたんだと。
しかし、あくまでタイトル、つまりは文字です。文字というものはその共通性によって効力を発揮するものです。ゆえに独自性のある表現ではありません。少なくとも本件のタイトルは普遍的な語句の組み合わせだと考えることはできます。(しかし個人的には疑念あり。後述します)
文字を使って表現をすることはできますが、文字は表現ではないというのが私の見解です。

今回のケース、廃墟ブログとAI廃墟写真集では内容は全く異なると言っても過言ではありません。同じ廃墟というモチーフを扱っていても、その中身が異なるのであれば、両者は被らないものとして私は、私という一人の表現者としては判断できます。

争点3
AIで同名ブログの写真を無断学習したのか

これについては何の根拠もないただの邪推でしかない言説です。そのほとんどがこの炎上の一端を担っている反AI系の人ですが、なかにはほぼ断言しているような投稿もあり、名誉毀損待ったなしといった感じです。
まぁ実際これも事実確認のしようもないのですが、AIの出力する廃墟の画像にはもちろん廃墟のイメージソースがあります。意図的にYUKIさんのブログの画像を読み込ませようなどという動機はやはり薄いと思いますが、AIが学習している無作為なデータの中にYUKIさんの撮った写真が紛れ込んでいる可能性は否定しようもありません。
しかし、この争点を投稿している人は、タイトルもパクってるのだから画像もYUKIさんのブログの写真をAIに食わせたものに違いないという論理の飛躍が散見されます。この文脈で語るとするなら、だれかの努力の結晶である作品の贋作を楽につくって金儲けしてやがって盗人猛々しい、というAI界隈全体に対するアンチテーゼであると考えられます。
これ以上は論点が脱線しそうなので、ここまでとさせていただきます。

次に問題点の考察へと参ります。

問題点1
法的に問題ないとしても同じ廃墟というジャンル内で同名のものが既出である限り、モラルに反した行為ではないか

難問です。モラルの話になってしまえば、結局は個人の感情の問題になりますので、前提として正解はありません。
裏を返せば、感情論というものは正解がないので、合意に至らずそれでもなんらかの決定をくださねばならんというときのために法律があります。
しかし、なんでも法律で解決するかといえば、しないことが多いのも事実。

今回のケース、私が気になったのは廃墟というジャンル的には共通するものの、媒体がブログと本で異なるという点です。もしどちらも出版本であれば廃墟写真集コーナー(昨今では本当にこんなコーナーがあります。すごいですね)に並ぶとすれば、一部混乱は免れないので多少問題アリと断言できるかもしれません。しかし読者にしてみれば、ブログはネット上であり、AI廃墟写真集は本屋で見るものですから、干渉は無いように思えます。
またYUKIさんの言うような、『自分と関係のある本だと勘違いされる』という危惧については、いやまぁ買う前に気づくよなさすがにと思ってしまい、詭弁じみている(無理筋な論拠)と感じます。
本当に勘違いして購入する人が出る可能性は否定できませんが、購入者側に非というか責任があることです。

問題点2
話し合いは決裂したようだが、結局どちらに非があるのか

態度や対応こそ様々な問題はあるかと思いますが、両者のどちらも決定的な非はないと私は考えています。
よくある価値観や態度や論点の相違によってコミュニケーションとして折り合いがつかなかっただけというふうに捉えられます。
今回の件、言ってしまえば正直それだけの話に感じます。それに尾ひれをつけて争点を肥大化させたのは部外者です。
非があるという善悪判断でいえば、当事者の両者サイドではなくリング外乱闘をしている人々が個別に抱える心の問題あるいはそのスタンスそのものかもしれません。

問題点3
そもそものAI廃墟写真(ひいてはAI画像)についてのコンテンツの是非

この点につきましては、明らかに本件の論外であるため、考察は除きます。
ただこの場で私個人の話をするなら、技術に是非もへったくれもありません。要はそれをどう使用するかの是非ということになりますが、それにもし需要があるのであれば、写真という技術が絵画の需要の母数を結果的に減らすことになったのと同様に、コンテンツの自由競争の中で法外のモラルの立ち位置は順次決定されるでしょう。そして覆される。他の手段と何ら変わりありません。私もAIで代替できることであれば代替します。
しかし、写真自体は私が撮りたいと思って撮ってるのでAIに任せることは絶対にありえません。趣味をAIにやってもらうなんてありえません。
ただ、ビジネス的に言えばやりたくないことをやってくれるAIはありがたい存在になることは間違いないでしょう。
世の中がそうなれば、AIと付き合うことは免れません。車社会になって道の真ん中を歩けなくなったような肩身の狭い思いをするかもしれませんが、それでもわたしたちは車という技術を手放さないし、その効率やスピード感を優先させ、人間を道の端に追いやりました。AIも使用者は人間であり、それにどかされるのも人間というわけです。
脱線しました。この辺にしておきましょう。

備考 東京キララ社のnoteについて

ここで書いてある曖昧にされている『事実に基づかない主張や一方的で過度な要求』の内容はわかりかねますが、両者の話し合いは決裂したということは同意見のようでした。

この廃墟本のテーマが『猫好きの著者がAIで生成した理想の廃墟の世界を猫の視点で旅をする』なのに表紙に猫がいないというのは不自然というか写真集としてのテーマ不全の気がするのと、廃墟猫という名前をかつて使っていた作者が『Ruin’s Cat』とつけたのはわかりますが、”Ruins”という単語に通常つけないはずの「’」(アポストロフィー)をつけたという、そこまでの被りをどう捉えるかなど私にも疑念が多くあります。

ちなみにアポストロフィーは所有を表すときに用いられるらしいです。
私は英語が堪能ではありませんので間違っているかもしれませんが、

アポストロフィーの使い方②所有を表す
英語で「太郎の車」などと所有を表すときには、アポストロフィーと「s」を使って、「Taro’s car」のように表します。固有名詞と一緒に使うことが多いです。

https://www.progrit.co.jp/media/pm88/

というように、『Ruin’s Cat』で「廃墟の猫」という意味になる……のかな?これがアポストロフィー抜きの『Ruins Cat』だと「廃墟 猫」と2単語が並んだ感じになるということで、余剰の関係性は表さない感じになりますね。
しかしテーマ的に考えれば、このニュアンスはちょっと意味的におかしい気もしますが、うーん。まぁこれはクリエイトの部分なので本件にはそこまで関係ないと思いますが。
絶対被らないとは言えないというところでしょうか。
英語の詳しい方、コメントお願いしたいです。


しかし、不法侵入や権利などの問題点をクリアにしてAI廃墟は楽しめるという利点は頷けるところです。廃墟写真が好きな人は実在ではなくてもいいという人は一定数いると思います。
東京幻想さんのような作風も広く受け入れられている需要もあります。それがAIでということなので、眉を顰める方もいるとは思いますが、個人的にはAIでも人が描いたものでもコンテンツとしての需要は大差ないと考えています。この意見には多くの反論が予期されますが。
ただ、工場で作っているパンより手作りしたパンのほうが同じクリームパンなら手作りのほうがいいとか、努力した結果みたいなものに人は感心するものなので、AI生成というものは感動の身体性のようなものはなくなっているとは思います。しかし普通、SNSでも巷でも、そのイメージが伝える情報に身体性を感じていちいち感心するということはありません。つまりAIが普通になって人が作ったものと同じ棚に並べられるとするなら、その両者に貴賤はなくなるだろうという考えです。

東京キララ社のスタンスは確かに強気で、昨今は炎上(民意)に対しては下手に出るというのが通例というネット社会では、明確な敵意や悪意を感じるという人もいるかも知れません。しかし、フラットに見れば、権利のない人が言いがかりをつけてキャンセルカルチャーがまかり通る社会に反旗を翻した毅然とした対応とも私は受け取れます。
これが仮に出版停止になってしまったら、事実で見れば権利を本来持っていない人が権利を主張し、裁判すらもせずに私刑の縄をかけて別の権利を侵害したというケースになってしまいます。

私は結果的には無事本が発売されたことに安堵しました。
私は金銭的に余裕がないという理由もあり、件のAI廃墟写真集は購入しませんが、心底ほっとしております。

総括

私は大局的に見れば擁護派ですが、YUKIさんのアンチというわけではありません。
私から見て、この糾弾が不当であり、このアナロジーの銃口は誰にでも向けられる恐れのある凶器であると考えたため、この件に対して様々な言及をしてまいりました。

人間はその多様性ゆえに生き残ってきたが、これからはその多様性ゆえに死に絶えるかもしれない。そう思うのは過渡期だから、シンギュラリティが訪れていないからで、そうじゃないかもしれない。
しかし現時点で、価値観の相違で戦争が起こっている、人が死んでいるのは確かです。と、そこまで私論に大きな主語を与えたいわけではありませんが、出発点として私の表現活動の動機としてはここは外せません。

「人はなぜ理解し合えないのか」

私は幼少期からこれを考えて生きてきました。
それは厳密に言えば、「私と他人はなぜわかりあえないのか」です。
それを立脚点に私はこれまで表現活動をしてきました。

その問題提起の一つのとして本件のケースを挙げさせていただきました。
まさにディスコミュニケーションの良いサンプルです。

今回、意図してビジネス的な文脈での考察を省きました。これは私がビジネス的な思考が拙いというものありますが、あくまで私は哲学的なアプローチとして本件に関心があるためです。
「タイトル被りはディレクションの時点で弾くべきだ」とか「この判断は出版社としてありえない暴挙だ」など、ビジネス的モラルの責任を追及しても私的には意味がないと思っているので。
それは編集長なのか出版社なのかわかりませんが、そういったビジネス的な定石をとるのかそれとも批判を退けるのか判断は自由でしょうということに尽きます。

この件を通して、私は炎上という火が多様な薪を源に燃えているということを改めて痛感しました。方向性も言論も個人個人みれば結構その条件は異なるんだけど、大きな炎の中ではみなその炎に照らされ、見つめるそのいくつもの顔を赤く一色に染めている。
SNSにおける炎上のエネルギーは細かなエビデンスや合意形成を大まかに包み込み、人々に地獄の業火を見せる。

さて、私にできることは何でしょうか。
ひとまず、このnote記事をもって、筆を置かせていただきます。

コメントありましたら、追記という形で返信させていただきます。
ご拝読ありがとうございました。

蛇足

わたしはかつて廃墟界隈に属していた人間です。多分。

以下はそんな私のその当時のことや、そこから考える愚痴みたいなものになります。駄文です。

私はかつて廃墟マニアで、廃墟界隈に内包されていました。
しかしその界隈独自のルールや雰囲気にどんどん嫌気が差し、いまでは廃墟界隈に対しては距離をおいています。
廃墟好きな人は、独占欲が強い人が多く、廃墟の情報やその写真についてもよく争いの種になっておりました。
写真は廃墟が特定されないようにアップするとかそういうことですね。まぁ元々というか今でもアングラ趣味ですから。そのほとんどは不法侵入などの犯罪なわけですし、センシティブなのもわかります。
しかし、そういう事情とは別に独占欲が強いのです。
ある人は廃墟の内部の写真を撮って、追随する人が同じ写真を撮れないように物を壊すなんて人もいると聞きました。あくまで伝聞ですが、本当でしょう。廃墟写真の無断転載など言語道断で、すごい剣幕なんですよね。開示請求まで行った人もいるくらいです。

今回この件に対して「出版社がヤクザみたいだ、法的に問題なくてもダサい。がっかりだ」と書いていた人と私はかつて廃墟探索に同行したことがあります。別にその人を信用していたとかではないのですが、やっぱり廃墟趣味の人はどこか感情的に自分の権利を誰かにパクられる侵害されることにめちゃくちゃ嫌悪している人が多い印象なのですよね。
というか、他人に厳しくて自分(あるいは界隈や身内)にめちゃくちゃ甘いんですよ。自分や仲間が同じように権利を侵害(不法侵入もそうですが)するのは弁護しても逆だとめちゃくちゃキレる。

こういうところに私は嫌気が差し、今では全く交流はありません。それと理由は別件ですが、廃墟もずっと行ってません。

廃墟の2chで叩かれたこともあります。話そうと思ってもロジックが通じないので、話すことすらできません。
今回、出版社とYUKIさんが話し合ったのも多分、そんな感じになったんじゃないかな?YUKIさんはX上では自分は理路整然と事実を確かめただけだと言っていますが。嘘だと私は思います。
あとから事実を確かめたいだけなんて思ってる人が、はじめに事実を確かめる前にこの本のタイトルは自分のブログのパクリです、なんて断言するわけがありません。
思い込みが強く、自分の価値観を押し付けるタイプに私は見えます。
どんなやりとりだったかはわかりませんが、YUKIさんは相手が犯罪者であるかのような態度で、当然自分にはそれを糾弾する権利があると思いこんでいます。もしかしたら出版停止を求めたり、出版するとしても金銭的な何かを求めた可能性すらあります。
しかし出版社側としてはただの言いがかり。
その態度も相まって、両者は歩み寄れなかった。

そんな感じではないかななんて勝手に推測してます。邪推みたいなもんですけどね。

本件ぶっちゃけ言えば、はじめに事実関係も確かめずに反射的にパクリだと断言したYUKIさんが悪いですよ。
喧嘩両成敗とはいえ、はじめに手を出しほうが悪いです。
はじめてに手を出したのはこいつが自分の物を取ろうとしたからだと言うでしょう、しかしそその人が自分のものと間違って物を取ろうとしただけかもしれませんし、ただ手があたってしまっただけのことを見て、盗もうとしたんだと見えただけかもしれません。
しかし、その人ははじめに手を出したのです。事実を確認せず。
私は本件、YUKIさんに非があると個人では思っています。

たとえば質問の回答にトンチンカンな回答がきたという投稿のあとにしたこの投稿。

論理も飛躍していますし、ただの詭弁です。
決してロジックが堪能な方でもないでしょうそんな人と話し合って、相手はこちらを盗人だと断定している人間で、となったら折り合いなんてつけられるわけないですよ。

まるで自分にこういう出来事がないように、今回は私の権利が認められるべきだったとでも言うのでしょうか?全く違うケースを挙げて?
愚かな人というのは恣意的な侮蔑になるので使いませんが、論理の通じない人と折り合うというのは本当に骨の折れる作業です。

話が通じない人というものは本当に恐ろしいものです。相手が動物ならむしろその加害を力や道具などで退けられるからまだ救いがあります。しかし同じ人権をもった者同士、ぶつかればただでは済まない。

くわばらくわばらと言ったところです。

散文失礼しました。

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