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あくまで、推測の域を出ませんが。

以前、「発表をはじめさせていただきます」という言い方が気になるという記事を書いたが、実はもう1つ、ゼミの学生が頻繁に用いる表現で気になるものがある。それが「あくまで推測の域を出ませんが」という前置きだ。他の大学や研究室ではどうかわからないが、僕の所属する研究室ではこのフレーズが便利なものと思われているのか、レポートや研究発表の結論を導くときの前置きとして使われるのをよく耳にする。おそらく「とりあえず言っておけば安心」とか「なんとなく学問っぽい」とでも思っているのだろう。

結論めいたことから言うと、僕はこのフレーズがあまり好きではない。というより、発表の場で用いるべき表現ではないと思っている。

まず「推測の域を出ない」と言うことで、自分の論述がもしかしたら間違っているかもしれないということを示すのは、ある種「守りに入っている」ように聞こえてしまう。そこには、自分の論述には誤りがあるかもしれないという、自信のなさが如実に表れている。「僕はこう考えてみました、まあ、間違ってるかもしれないけどね」と。なんとも無責任な話である。

だが、僕が言いたいのは「自信のないことを述べるな」というようなことではない。「守りにはいるな」ということでもない。「あくまで推測の域を出ませんが」と前置きする人たちは、学問を考える上での前提を認識していないと思うのである。

そもそも、学問の場において「100%」「確実な」ことを述べることはできないのではないか。様々なデータや資料を根拠として論を組み立てて結論を導くわけであるが、どれだけ大量の、どれだけ「確実そうな」根拠を集めてきたとしても、その結論が「絶対」であると言い切ることはできないだろう。「ほぼ確実」は言えても、それがもしかしたら違っている可能性がある。そのことは学問をする上での前提として認識されるべきである。

今、「可能性」と言ったが、学問の場で述べるべきは「可能性」の先にある「蓋然性」だと思うのである。もちろん「可能性」のあることを見つけてこなければその蓋然性を述べることもできないのであるが、ある程度のデータを集めれば可能性のあることを見つけることは困難でない場合が多い。ここで言う「可能性のあること」は「仮説」と置き換えることができるかもしれないが、問題にすべきは、その仮説がどの程度の確実さを伴っているかという「蓋然性」を述べることであり、そこにこそ学問の本質があるのではないだろうか。

つまり、もし学問の本質が「可能性」でなく「蓋然性」を示すことにあるという認識を持っているのであれば、「あくまで推測の域を出ない」と述べることは、自分の論述が可能性の指摘にとどまっており、その蓋然性を述べるところまで達していないという未熟さ示していることになる。これならまだいいが、「取りあえず言っておけば安心」「なんとなく学問っぽい」という理由で「あくまで推測の域を出ない」と言っているのであれば、それは学問の本質に対する無知を曝け出しているのであり、それは「学問っぽい」とは正反対のことである。

だから、僕は「あくまで推測の域を出ない」というフレーズが好きじゃないし、発表の場では絶対に用いない。難しい問題設定をして蓋然性を述べるところまで到達しなかったのなら、素直に「可能性の指摘にとどまるが」と言えばよいと思う。

ついでに触れておくと、「~に他ならない」という言い方も注意が必要な気がしている。学問の場や評論などにおいてよく目にする表現であるが、これはあくまで筆者の主張の妥当性を強調するために用いているのであり、文字通り「それ以外はあり得ない」ということを必ずしも意味しない、と少なくとも僕は考えている。その場で言及している対象について、ある見方をしたら確かに「~に他ならない」かもしれないけど、それが同時に別の見方・捉え方を排除するかと言えば、そういうことではない。

以上、ちょっと気になっているコトバたちでした。

(2020.9.14)

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