真実の取り扱い方

昨日こんなことを思いついておしゃべりしました。
 #Podcast 

矛先 ベクトルの方向性


真実を知りたい、、、とすると、
その矛先 ベクトル はどこに向くでしょうか。

内 ここ
外 どこか

ひとまず、ここでは 
その矛先ベクトルは外に向く
、、、という仮定で話してみます。

こちらの収録でも 真実教/真実狂 と表現していますが
「真実」って…すごい信じられていますね。

真実って、そんなにすごいのか。


真実って、そんなに美味しいのか。

真実なのだから、真実なのだろうと…

そんなふうに、その真実とやらは「特別扱い」されて、だから? なぜか「ここではないどこか」にあるものとされ、それは外に求められ、意識=ベクトルは外に向きます。

求めます。探します。

どこだ?どれだ???
知りたい知りたい(足りない足りない)


左脳って「外」に求めていくのですね。

左脳にとって知ることは「情報&その量」
それを「知った、わかった」としているところがあります 

= 左脳的理解、マインド的理解

で、真実と提示されたものを、
そのまま 真実として受け入れてしまう。

この“しまう”という表現は 
それに対して 無意識 ということです。

違う表現でいえば「真実っぽい」ものを「真実」として採用していく。最終的には「それが真実だと認定しているのは自分」なのだけど、そのプロセスは、意識的というより 無意識のうちに=自動的に 行われているようです。

無意識のプロセス

その無意識のプロセスには 
自分の世界観 が投影されています。

ある程度「真実の目処=イメージ(無意識)」みたいなものがあって、それにあわせた「情報を集めて」「納得する」というようなことをしている、、、それでいうと、真実像=世界観はある程度決まっていて、その骨格に根拠となるような肉付けをしていっている工程なのかもしれません。

その 自分で信じた真実(採用した真実)を良いとかイヤだとか言ったり、その真実を「変えよう」としたりしている、、、これはよくよく見てみると、とても不思議な光景です。完全に自分ひとりの世界のみで完結している現象です。

一種の芸術家が、自分の作品に対して、
あーだこーだやっている内的な作業に近いです。
それが良いか悪いか、納得するかしないかも、
自己完結の世界だからです。

それ、ぜんぶ自分で決めていること。

収録でも話しているのは、

それが真実として、
その真実=現実を生きたいだろうか?


というフィルターを「意識的に」かけるということです。

このあたりの仕組み、人間の意識の仕組みというものを理解している人たちは、真実とはなんなのか?現実とはなんなのか? その真実や現実というものがどのように出来上がっているか... を知っていて、まだまだたくさんの「無意識なままの意識のコントロール」によって、それを可能にしているようにもみえます(←妄想です)

真実とは、自分=意識がそうだと認識してはじめて、それになる。

真実=現実 真実⇄現実

そういう意味では、、、

結論めいたものとして、、、


これまでは、左脳的には「真実、本当、答えと呼ばれているものを知る」ということがとても大事なミッションだったわけなのですが、知っても知っても、どこまでも知ってもラチがあかない。「真実=知る」ということの構造を理解した次の段階として「フォーカス=創造」に進んでいくのかもなあ、、、ということです。

なにが真実か?⇄知りたい知りたい足りない足りない
ではなくて「 なにを生きたいか? 」
、、、というのが、自分という意識のポテンシャルの本領発揮。

それは「お母さんのお乳を求めている」状態から、その状態さえも、自分自身の世界観であって「お乳を飲むことは必須...だとおもっていたことさえ必須ではない」ことに気づいて、それ以外のことをやったり選んだりすることも「できる、できないも自分=フォーカス=意識次第」なのだということ。

そういう意味では、
なにを知るか?=なにを真に受けるか?というのは、
そのまま真実=現実になっていきます。なので、、、

なにを知るか?=なににフォーカスをあてているか?=どういう世界観を生きているか?=なににフォーカスをあてるか?=なにを真実/現実とするか?

は同義です。

それに意識的であることは大事(それでしかない)のかもしれません

で、これでよく起きている「逆説的な現象」は、望まない現実を変えようとして、その望まない現実にフォーカスをあてて、その火を消しているつもりが燃料になっている、、、みたいなことです。

無意識の加担

焚き火にボンボン焚き木をいれているようなことをして、その望まない火を消すどころか、燃やしている=加担している、、、でも、その自覚はありません。これまた無意識。

変えよう!としているそのアプローチが、その現実のリアリティに加担している、、、ということに気づかない。

消火器を吹きかけて火を消しているつもりが、油をふきかけている、、、そのことに気づかないというのが、まさに、このメカニズムを「逆説的にわかりやすく」よく描写しているものです。

なかなか、自分がそうしているときには気づいづらいものなので、世界で起きていることをよくよく観察してみると、気づきやすいです。あれって、火を消しているのか?火を消しているつもりが、さらに火を大きくしてはいないか?

そして、もしそれに気づいて、反応/批判してしまうと、またそれは自分自身も知らず知らずのうちに、その現実という火に参加/加担/燃料になってしまいます。

ほんと面白い構造。そんなときにも、マインドフルネスが役立ちます。

無意識のうちに、
望む現実も望まない現実も“わたし”が作っていて、、、

というより、非二元的な表現でいうと、
それは“わたし”であり、“わたし”がわたしを生きています。

真実と呼ばれているものは真実というより“現象”です
その現象とよばれているものも
真実が包括している一部分にすぎず絶対ではない。

そこが逆転することはないのだけれど、
表面的にそこが逆転してしまている体験/認知が起きているようにもみえます。

知識 知る 情報 は
現象(包括されているもの)でしかなくて、
それらが 絶対・中心・主人 ではないということです。

それらを崇め祀ってしまうと
「それらがあっての自分」という配置となって
それらが中心・主人となって「それら次第」
=それらに操縦されているような動きになってしまいます。

本来の感覚・中心は機能せず、軸は外にあり、
そこを起点としたそれは「お正月の凧」状態です。

外に夢中で、おざなりになっている
内にフォーカスをむけます。

内へのフォーカス??? とわからない場合には

呼吸 への意識 

(呼吸に気づいてみる)から 

そして、それによって、どれだけ内ではなく外にフォーカスが向いていたか、思考ばかりが動いていたかに「気づく」ことも、その役にたちます。

その様子に気づいているその感覚も 内 わたし です。


ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp




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