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非二元・ノンデュアリティ的な「正しい表現」
非二元・ノンデュアリティ的な
「正しい表現」にこだわっているのも、
左脳さん( •ө• )
これはそうで、これは違う…
にこだわってしまうと
「非二元という題目」を通した
二元性のこだわりの世界へ突入してしまう。
やっぱり左脳・思考で
非二元ノンデュアリティを
「わかろう」としちゃいかんのでしょうな
いかん!というより、
どツボにハマるというか、、、
コトバ・思考の世界でぐるぐるしちゃうというか。
コトバの世界に入っていってしまうと、
どーしたって「そういうこと」が起きてくる。
非二元についての詩作、ポエムの創作において
“コトバじり”にこだわるのは
自然なことではあるのだけれども、、、
正しい表現 正しい理解
きっちり、きっちり、、、
なんでもそうだけども
”言葉じり”をつめていくような世界はツラい
そうではなくて、
そこにあるエッセンス(要は…の部分)を
受け取れたら丸儲け・すべてがギフトです。
逆に、要は「そこ」じゃないだろ??という
「そこ」にこだわってしまうのは、
二元性がつよくつよく出た
バラバラ別々の思考世界。
そして、左脳って、
そういうとこにこだわる( •ө• )
名刺に書いてある名前が
「わたし自身」ではないように、、、
コトバというのは「名刺に書かれている名前」のようなものでしかなくって、この「正しい表現」にこだわる…というのは、名刺に書かれている「名前の字体やデザイン」を通して「本体そのものを変えよう」としているようなことと似ている。
「左脳さん、右脳さん」
のような脳の機能的なハナシについても、、、
左脳過剰な時代には、そのような現状についての指摘のような表現になってしまい、それが「左脳の悪口」みたいな表現にもなりがちなのだけど、そのような現状が変わってくると、そういう言及も不要な状態=バランスに変わってくる。
そして、それは、
「そのための機能的表現でした…」ということになる。
あの頃は「そういうかんじ」だったから、
そうだったよねー(すごい懐かしいねー)
…なんていうファッションのハナシと似ている。
時代の流行によって表現が変わってくるように、その時代時代の表現「過渡期の言い回し」っていうのがある。
なので、、、
「イマココでおきている表現」は、
いつかどこかではまったく
「検討はずれの表現」だったりするはずで、
いまここにおいても
「誰かにとっては検討はずれ」のはずで、
そして、それでいいのだとおもう。
いまここで、なにかしらの
機能をするためのコトバ…だから。
あのとき…と、今…とでも
「いま、しっくりくるコトバ」
「いまをサポートしてくれるコトバ」
「いまのなにかを促してくれるコトバ」
は違う。そのコトバは「誰かにとって正解だったり間違い」かもしれない。というのは、それが「いまの自分に必要なコトバ」かどうか??で変わってくるようなもの(でしかないから。)
コトバがなんと言っているか…ということに、
そこまで厳密にこだわる必要もない…というよりも、
そんな 完全無欠のコトバはない( •ө• )
のだから、そのようなコトバというものに
期待しすぎないほうがいい…そんな気がする。
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