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いま・ここ・かんじていること…は、誰かを介して知ることはできない。

正しさというのは

「アタマを使わないと出来ない」

…ということは「それ、思考・考えだね…」ってなるわけなのですが、思考や考えって自分オリジナルのものっていうのはありえなくて、

誰かやいつかの「考え」の
 継承だったりするわけですよね。

だから、その正しさ(思考)は自分の…というより、どこかから持ってきた、または学習したものを採用して、それらを組み合わせて、ここで使っていたりするんですけど、、、

その考えで…そうしているのか。
そう感じて…そうしているのか。



これは、、、その言動の母体となるものが
左脳・思考という母体とつながっているそれなのか。
右脳・無意識という母体とつながっているそれなのか。

たとえば人間以外の動物たちは
自然を母体としていて、
自然として動き、生きています。

それに近い右脳域で起きてくる
「踊りのまえの踊りを踊る」というのは
自然・いのち・全体の動きで、
その「自分のなさ」は、
無自覚・思考停止にも
似ているようにもみえるのだけど、それは、、、

つながっている
「母体の違い」なのだろうとおもう。


現代の思考停止というのは
人工的または意図的に作り上げられた価値観
左脳概念というデータベースを母体としていて

① 左脳過剰により、
思考と一体化していることに無自覚

② その思考がやっていることに、
まったく気づけていない状態のこと

それによっておきている左脳過剰現象
(無自覚・思考停止)なのだとおもいます。

そうなると、もはや、、、
そこにいる個人が生きているというより、

その個がつながっている母体
(左脳概念というデータベース)が、
その個・人を介して生きているようなかんじ

…というそっちに近いのでは、、、、、、、

当然ですが、人間以外の動物たちは左脳過剰ではないので、これを母体とせず、自然・いのちとつながって、それそのものとして動いて、生きています。

左脳過剰な場合、
動物たちのそれとは違うなにか
左脳を通してつながっていて、
“それ”と一体化して、それを生きている
(というより…それが生きている)
それをマインドコントロールと
いったりしているのかもしれません。

なにと繋がっている
生き物がここにいるのか?


ってかんじだろうか。もともと自然であるものが、自然からどんどん切り離されて、なにとメインに繋がって活動している生物がここで生きているのだろうか。

それは、左脳優位か右脳優位か??
と、そのまま直結してくるのだとおもいます。

「これが正しいから、こうすべき。」
「これが正しいのに、出来ないの?」

このようにアタマ・左脳さんは「正しさ」を提示して、
その「正しさ・基準」に夢中にさせて、それを使ってコントロール・主従関係を構築しようとしてきます。

そういうことを言ってくる
アタマ・思考に従う…のではなくて、
いま・ここ・かんじていることに教えてもらう( ˘꒳​˘ )

いま・ここ・かんじていること


それは、誰かのそれじゃないし、
逆に誰かを介して知ることは出来ない…

いま・ここで直接、ダイレクトに
「かんじていること」でしか知る術がない…

そして「かんじる」は考えるじゃありません。

いま、かんじていることを、
非言語のまま探っていくそれは、


陶芸の、ろくろで回る土を触りながら
「それを感じながら」
カタチを成形していく様子、、、



そのようなかんじに近いかもしれません。
アタマで考えてない、感覚、かんじている、、、

そして、そこ最後っ屁としてコトバになることもあるだろうし、コトバにならずまま「踊りのまえの踊り」として身体表現、そのまま現れ、でていく…


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