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ライブで泣く人、イチゴで泣く子



音楽ライブを見るのが苦手だった。

ライブに足を運ぶ人の気持ちを理解することが難しかった。
決してその人たちを否定するわけではない。まず私はポップスなどそういう文化自体は大好きだし、趣味は迷惑にならない範囲で思い切り楽しめばいいと思う。思うのだが、私はどうしてもライブが何故あれほどまでに人を惹きつけるのかがわからなかった。アーティストのライブに行った人の話を聞くと「(アーティスト本人が)米粒みたいだった」とか「音が大きすぎて演奏がよくわからなかった」とか「人が多くてみんなで揺れてたらいつの間にか終わってた」とか、そんな話を聞くことがある。どうしてそこまでしてライブに行くのか、と、完成された音源を静かな場所で楽しみたいタイプである私は思った。
昨今はコロナ禍の影響もあって、ライブがYouTubeで配信されたり有料配信されたりしている。見てみるが、映像でもやはり苦手なものは苦手だ。そこまで感情が動かない。
きっと私には向いていないのだ。と思っていた。



連休中にドキュメンタリーを見た。
サカナクションの山口一郎氏が告白した、うつ病、その闘病についてのドキュメントである。

番組で山口氏が動けずに横になっている姿が映った時に、ああわかるなあと共感を覚えた。病名こそ違うものの、そのような日が私にもある。山口氏が自身のある1日について語る。「昼は身体の調子が悪くて夜はメンタルの調子が悪い」。よくある。的確な表現だと思う。

著名なミュージシャンの方でも一人の人間であり、人間としての機能が崩れることだってありうるのだな、と思った。一般人が少なからず憧れる「自己表現」を自由にし尽くしているかのように見えるアーティストであっても、だ。

それ以外に印象に残った部分がある。最後の山口氏復活ライブの場面で、終盤、メンバーであるドラムの江島氏が涙を流した時、顔を覆って同じようにおそらく涙しているファンの方が映っていたことであった。これはドキュメントだから映る光景なのかもしれない。ライブ映像は基本的に客席が大写しになることはない、と思う。よくあるのはライブ会場全体がペンライトや人々の頭で埋め尽くされている光景全体を映したものだ。客席の一人一人に注目すれば、こんなふうに感情を大きく表現している人もたくさんいるのだろう。

否定ではなく、単純に思った。
どうしてこんなに感情が動くんだろう。動かすことができるんだろう。

その時ふと思い浮かんだ。
人は……「大人」は、普段出せない感情を発散するために、ライブに足を運ぶのではないか。


「大人」は普段なかなか泣けない。
泣く理由を問われる時に、「大人」は少し、深い理由があるのではないかと探られてしまう。仕事がうまくいかないとか、金銭的な余裕がないとか、生活の見通しが立たないとか。私はここ数年でそれらの全てがあって、それを相談に行くとさらにその奥の理由……人よりもそれらを「つらく思ってしまう」理由、つまり私が置かれた環境であるとか私の生育歴であるとか、そういうことを聞かれる。話す。聞いてもらう。だからといって特に進展はなく、最終的に薬が出る。理由もなくただ泣きたいだけの日だってあるのだが。

泣くだけではない。生活や仕事の中で、思い切り大きな口を開けて笑うこともできないし、気に入らないから怒り喚くこともできない。(もちろんできる人もいるが、ここでは、できない人が多いという前提で話を進めようと思う。)日々の辛いことを何かで発散しないと人は潰れてしまう。だから人々はお酒を飲んだり、スポーツ観戦をしたり、ゲームに没入したりする。

私の場合は無心で楽器を弾くことがそれにあたるが、体調が悪く楽器を弾けない時がある。そもそも体が弱いので、先に挙げたようにライブを見たり、外出、パーティー、はたまたインターネットにあるさまざまなコンテンツ、そのようなものでストレスを発散することができない。目が痛い、体が痛い、ひどく疲れる。やはり向いていないのだ。一人の部屋で静かに眠っているとどうしようもなく悲しくなる。悲しくなるとふと思い出すのは昔のことだ。

テレビを見ていて、出てきた人が泣いていたので、私もつられて泣く、そこに祖母が現れた。私の家族はある一時期、訳あって全員疲れていたので、誰も私という“家族成員の中のただ一人の子ども”の感情に寄り添っている暇がなかった(衣食住など、それ以外のことは大きな不足なく育ててもらったので感謝している)。
泣いている子ども……私に、祖母が言う。
「なに泣いてんの。しっかりしなさい。」
それが何度も続いてしばらくすると私はほとんど泣かなくなっていた。
様々な事情によって泣けない子どもだっている。
子どもが「大人」である場合もあるのだ。

「大人」は泣けない。
しかし、まだ悲しい。
仕方なくキッチンに行って戸棚を開け、好きなビスケットを出してきて、食べる。小さい頃から大好きな懐かしの味はずいぶん小さくなってしまった。私が大きくなったから……理由はそれだけではないだろう。私はそのビスケットを切らさないようにしている。湿気ないように缶に入れて少しずつ大事に食べている。

私がこうしてビスケットを食べるような気持ちで、ライブに行く人だっているのだろう。
きっとそうだ。



連休の間も体調不良は途切れずに続き、特に大きなことができそうにない私は、ささやかな娯楽として、スーパーにそのビスケットを買いに行った。

ちょうど出口のところで、小さな女の子が泣いていた。ちょっとやそっとのぐずり具合ではない。それはもう大号泣である。隣にいたその子のお母さんがどうしたんと聞く。ゴールデンウィークだからかお父さんもいて、大きな荷物を持って帰ろうとしている。女の子は父親を指さして言う。

「イチゴ持ちたい」

スーパーに入ってすぐのところに、イチゴがお祭りかのように並べられていた。美味しそうだったので私もひとパック買った。そのイチゴは上にフィルムをかけられ、潰れやすいという果物の特性上、そのお父さんが持つ荷物の一番上に乗せられていた。

イチゴ持ちたい。

お父さんからお母さんへ手渡されたイチゴは最後にその女の子の手に渡り、赤い宝石箱のようなイチゴのパックを恭しく受け取った彼女はあっさりと泣き止んで意気揚々と歩み出した。その子はそのまま両親と歩いて帰って行った。

その子はそうしたかっただけなのだった。

本来の人間はイチゴを持ちたいと、それだけの理由で泣く生き物なのかもしれない。そしてそれが許される生き物であるのかもしれない。

私が「イチゴを持って歩きたい」とスーパーの入り口で泣いていたら、世間は悪い意味で放っておいてくれないだろう。職場で落ち込んでいる人がいたとして、その人毎日頑張っているからすごいと思って……と共感して私が号泣していても、冷たい目で見られるだけだろう。素直な感情の発露は、歳とともに難しくなっていく。だから過ぎ去った青春を美化したり、子供時代に戻りたいという人が現れたりするのか、と、最近大人の入り口に立った私でもそんなことを考えたりする。スーパーで見た女の子はそのあまりの喚きぶりに周囲からやや迷惑がられていたが、私は珍しくその騒音を嫌だと思わず、むしろ正しい成長だと思った。この子には泣く自由と健康があって、それは素晴らしいことだ。私にはあまりなかったから尚更思う。



最初の話に戻る。私はライブがどのように楽しいのか想像することができなかった。しかし、可能性の一つとして、「感情を解放して楽しめる」ということがあるのではないか、とやっと実感できた。大きく口を開けて笑っていい。(大抵は)赤の他人であるアーティストに勝手に心を寄せて泣いてもいい。叫んでもいい、踊ってもいい。みんな、本当はあのイチゴの子みたいに、素直に感情を発露したいのかもしれなくて、ライブはその気持ちを深く受け止めているものなのかもしれない。
先に引用したサカナクションのドキュメンタリーは胸に沁みた。音楽は素晴らしい。私も、いつか誰かのライブを見に行ってみたいなと言う気持ちが芽生えた。

ということは。

YouTubeを開くと、アーティストのライブダイジェストの映像が配信されていたりする。出てくるのは知っている人からあまり知らない人まで様々。偶然タップして知らない音楽に出会うのが私は好きだ(ライブが苦手なだけで、MVはこの方法でよく聴く)。適当にライブ動画を選んで、その辺りにタブレットを置く。音量は最大……にはできないが自分が聴ける範囲で大きくする。あ、アイドルだ。舞台に立ったよく知らないアイドルが揺れる大観衆を前に手を振っている。一人も見えていないかもしれないのに全員に「愛してる」なんて叫んでいる。こんな会場があってこれだけ人が集まってこんなライブができる、痛いぐらいの平和。毎日苦しいと言いながら5月の風が吹き抜けるちょうど良い温度の部屋で寝転がってそれを見ている私。なんだか、ばかみたいだろう、けれど私は今から自分がどんな感情を抱くのか見てみたい。笑うのだろうか。泣くのだろうか。私は私を許して、私の感情を、これから知っていく。

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