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それでも開戦を選んだ 現代にも通じる意思決定の反省|【特集】真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論[PART-3]

80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。

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文・牧野邦昭(慶應義塾大学経済学部教授)

日本軍の研究機関は、日米開戦の無謀さを認識していた。なぜ「非合理な」開戦を決断したのか。石油禁輸措置で追い込まれる日本がすがった、一縷の望みとその誤算とは。

 1941年12月、日本は経済国力の差が歴然としている米国(正確には米英)に宣戦布告し、やがて敗北した。

 戦後には当時の指導者(特に軍人)の「愚かさ」「非合理性」、特に情報分析を軽視したことが強く批判された。しかし日本の当時の指導者は当時の帝国大学や陸軍大学校、海軍大学校を卒業し、海外経験もあるエリート中のエリートであった。また日本のほか米国など主要国の経済国力に関する研究は陸軍内外で盛んに行われていた。

 例えば39年9月、陸軍省で軍政や予算管理を行う軍務局軍事課長の岩畔豪雄(ひでお)大佐は、陸軍省に転任してきた秋丸次朗主計中佐に、将来の総力戦に向けた「経済謀略機関」の設置を命じた。それまで関東軍第四課で満州国における経済建設の内面指導を行ってきた秋丸は関東軍時代の人脈を使い、東大を休職中だった経済学者の有沢広巳に接触して協力を求め、統計学者・経済学者・地理学者のほか各省庁の官僚を動員した。

 そして、南満州鉄道(満鉄)内のシンクタンクである満鉄調査部を参考に、陸軍省戦争経済研究班(陸軍省主計課別班、通称「秋丸機関」)を組織した。秋丸機関では日本のほか、米国・英国・ソ連などの仮想敵国、ドイツやイタリアなど同盟国の経済国力とその「脆弱点」の調査が進められた。

 秋丸機関や他の研究機関によって「正確な情報」は多く提供されていた。指導者が格別に「愚か」「非合理的」であったわけではなく、また正確な情報も存在していたにもかかわらず、後から見れば「無謀」「非合理的」と思われる判断がされたのはなぜなのだろうか。開戦に至る過程を検証することは、現代の意思決定のあり方を考える上でも参考になるだろう。

日本の方針を狂わせた
独ソ戦の勃発

 秋丸機関による日本の経済国力分析の結論は40年末~41年初めに陸軍側に報告され、「日本は日中戦争の倍の規模の戦争には耐えられない」という結論を出したという。また、国家総動員体制のための計画・対策を行う企画院も、陸軍省整備局戦備課も、対英米開戦後は日本の物的国力が減少し長期戦には耐えがたいという同様の結論を40年~41年春までに出していた。

 これらの判断は無視できるものではなく、41年6月6日に陸海軍統帥部により決定された「対南方施策要綱」では、英米を刺激せずに「綜合国防力を拡充」することが基本的な方針とされた。日本の物的国力では対英米長期戦を遂行できないことは十分認識されていたのである。

 しかし41年6月に独ソ戦が勃発することで日本の方針は大きく狂う。長年の仮想敵国であるソ連をドイツと共に攻撃することを主張する「北進論」(陸軍の作戦を統括する参謀本部中心)と、逆に北方のソ連の脅威が薄れるからこそ資源を求めて南方に進出しようとする「南進論」(陸軍省軍務局や海軍中心)とが対立する。

 こうした中で「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず」という「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が同年7月2日の御前会議で決定されるが、これは南進論と北進論とを「両論併記」、つまり足して二で割ったものであった。

 前述の秋丸機関による英米およびドイツの経済国力に関する報告書は同月に完成し、陸軍上層部に報告されたと考えられるが、それは

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