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感染対策と経済の両立へ日本は〝方向転換〟を決断せよ|【WEDGE SPECIAL OPINION】政府、分科会、首長よ コロナ対応の転換から逃げるな[PART2]

 「規制は経済や社会、精神的な健康、子どもたちの人生の機会に大きな犠牲を強いる。これ以上その代償を払う必要はない」
 英国のボリス・ジョンソン首相は今年2月21日、新型コロナウイルスに関する規制の全面撤廃をこのように発表した。米国でも3月2日に連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長がコロナ危機以来続けてきたゼロ金利政策を終える考えを表明するなど、各国は社会経済活動の正常化に向け舵を切り始めている。
 一方の日本では、またも3月3日に18都道府県のまん延防止等重点措置の延長が発表された。感染者数は欧米に比べて圧倒的に少ないにもかかわらず、先進国の中でまるで日本だけコロナ禍が続いているといえる状況だ。
 この2年間、わが国では新規感染者数の抑制に執着するあまり、日常生活のささやかな幸せが軽んじられ、財政難にもかかわらず信じられないほどのバラマキを続けている。
 政治やマスコミが国民に刷り込んだ新型コロナに対する恐怖感を払拭することは容易ではない。しかし、国民の批判を恐れて世論に阿り、リーダーが決断を先延ばしにしていては、〝ウィズコロナ〟など夢のまた夢だ。
 「宣言とかという言葉でコロナは抑えられない」
 緊急事態宣言やまん延防止等重点措置を政府に要請しない理由について、奈良県の荒井正吾知事は1月19日にこのように述べた。今政治に求められているのは、「強い覚悟」と「決断力」でウィズコロナの実現に向けて舵を切ることである。

文・仲田泰祐(Taisuke Nakata)
東京大学大学院経済学研究科 准教授
1980年生まれ。米シカゴ大学経済学部卒。米ニューヨーク大学博士号(経済学)取得。米連邦準備制度理事会(FRB)調査部主任エコノミストなどを経て2020年より現職。専門はマクロ経済学。

欧米が日常を取り戻しつつある中で自粛ムードが抜けない日本。行動制限の負の影響を直視し、〝ウィズコロナ〟に向け舵を切る時だ。
(聞き手/構成・編集部 大城慶吾、野川隆輝)

 新型コロナウイルス感染症の発生から2年。これまで最前線の現場で奮闘し、コロナ禍を乗り越えようと、必死に努力されてきた医師や看護師、全国の保健所職員、感染症・公衆衛生の専門家の方々に、心から敬意を表したい。だが、コロナ禍で2度目の春を迎えた今もなお、日本では「感染症対策」と「社会経済活動」の両立の見通しは立っていない。

 コロナ分析に1年以上従事してきた筆者の見る限り、感染症・公衆衛生の分野では、ゲノム解析や保健所で活用するマニュアル整備、疫学調査の設計など、現場の近くで実務と研究に尽力されている方が多い。しかし、疫学モデルに精通した方は必ずしも多くない。しかも、日本では、感染症対策と社会経済活動が別々に議論されているように感じる。われわれのチームでは、2021年1月から、数理モデルを使いその両立に向けた、現実的な見通しを示すべく、さまざまな切り口で感染者数や経済見通しなどを毎週、分析・試算・公表する試みを続けている。

 本稿では、日本が今後、どう新型コロナの感染リスクと向き合うべきか、筆者の考えを述べたい。

 日本:20億円、豪州:12億円、米国:1億円、英国:0.5億円──。これは、各国・地域で「コロナ死亡者を1人減少させるためにどの程度の経済的犠牲を払いたいか」という支払い意思額を試算したものである。一目瞭然だが、先進国の中で日本が突出している(下表参照)。さらに都道府県でも地域差が見られ、東京都:5.6億円、大阪府:4億円に対し、鳥取県:563億円、島根県:730億円という結果である。

日本人が「コロナ死者を1人減らすために
許容できる経済的犠牲」は相対的に高い

(出所)筆者らの分析による公表資料を基にウェッジ作成
(注)数字は概算

 紙幅の関係上、計算方法の詳細は省略するが、概略を示すと、まず、各国・地域の感染・経済に関するデータと数理モデルを利用し、各地域におけるウイルスの感染力や致死率、経済政策、医療体制など広い意味での「制約」を推定する。その上で(消費者の選好・嗜好を推計する)「顕示選好」という考えを応用する。これは、多くの選択肢からある特定の選択肢が選ばれたならば、消費者にとって、その選択肢がもたらす効用が他の選択肢より大きいはず、という経済学の考え方だ(※)。

※ 顕示選好:予算1000円の制約下、1個100円の飴と1冊500円の漫画があるとする。ある消費者が、飴を10個購入したならば、その消費者にとっては漫画2冊よりも効用が大きいはず、という考え方

 このように、①データ、②数理モデル、③経済学の考え方の3つの組み合わせによって、試算する。なお、この数値は支払い意思額であり、実際の支払い額ではない。また、アンケート調査でもなく、経済損失を死亡者数で割るという単純な割り算でもない。感染抑制と経済のバランスに関して、「これだけの社会犠牲であれば許容できる」という国民の〝価値観〟を示すものと言え、数値の大小によって優劣をつけるものでもない。

 ただ、この試算から言えることは、日本の場合「20億円という大きな犠牲を払ってでも死亡者数を抑えたい」という価値観があるということである。

 一方、英ジョンソン首相は2月21日、国内の新型コロナ規制を全面的に撤廃することを発表し、社会経済活動の正常化に大きく舵を切った。まさしく〝ウィズコロナ〟であり、日々、数万人の新規感染者や数百人の死亡者が出たとしても、「コロナとはそうしたリスクがあるものであり、この程度のリスクは許容しよう。共存しよう」という態度を明らかにしたのだ。

失われる日常のささやかな幸せ
「負の影響」に目を向けよ

 日本人が死者数を1人減らすためにこれだけ大きな犠牲を払いたいという価値観の背景には、何事にも「完璧さ」を求める国民性と「感染リスクを減少させることに伴う社会犠牲を楽観視、または過小評価」していることがあるのではないか。

 こうした社会犠牲の中には、飲食店、宿泊業、エンタメ業界、それらと関連する産業の大きな停滞だけでなく、子どもたちにとって、一生の思い出になる学校の修学旅行や遠足、入学式や卒業式、日々の授業や部活動、大人にとっては、お盆休みや正月に両親や親戚、友人に顔を合わせるための帰省など、「日常のささやかな幸せ」がたくさん詰まっている。

 その意味で、日本人は海外に比べて、日常のささやかな幸せを軽んじる傾向が見られ、「命を守るためなら、ある程度の犠牲は仕方がない」「国・政府の言うことを守ることが是」という固定化された思考や正義から脱却できない状況に陥っているとも解釈できる。

 現在の政治状況は、コロナ対策に関し、最終的な意思決定者がいったい誰なのかも不明瞭に映る。首相や政府、分科会、首長から打ち出される政策や発言は統一感が感じられないことも多い。球技に例えるなら、試合を決定づける肝心な場面で、ボールをパスし続けるだけで誰もシュートを打とうとしない、という責任回避ともとれる状態が長く続いている。

 また、メディアは新規感染者数や重症者数、病床使用率の推移・予測に注目する傾向が強い。一方で、コロナ危機での社会経済教育に関するデータはあまり頻繁に公表されないし、報道もされない。自殺者数や失業率などの推移は月に1回しか公表されない。出生者数、婚姻数についても同様である。

 2年近く、人と人とのつながりが抑制された負の影響は多岐にわたる。自殺者の増加がその一例である。筆者のチームの試算では、20年3月~21年12月末までに、約4900人がコロナ危機の影響により自ら命を絶っている。この超過自殺者には若い世代が多く、20代の女性が約830人と最も多い。友達と会えない辛さであろうか、子ども(20歳未満)の自殺も270人(22年2月時点)と増えている。

 また、出生数については、コロナ前から下降傾向にあったため、現時点ではコロナ危機の影響は限定的と言えるが、21年12月時点で、「コロナ禍で失われた婚姻」は約11万件に上り、この埋め合わせがなければ「失われた出生」は約21万人に及ぶとの結果も出ている。ただでさえ、少子高齢化が進むわが国で、この影響が軽微であると言い切ることは決してできないであろう。

 そうした社会の犠牲の大きさが新規感染者数や重症者数と同様の頻度で可視化されれば、「行動制限の負の影響」や「経済損失」がどの程度生じているのか、国民も把握することができる。それにより国民が感染症対策と社会経済活動の両立に今まで以上に関心を持つことになり、世の中の空気は変わるのではないかと筆者は推測している。

 現在、ワクチン3回目の接種が進んでいる。もちろんワクチンの効果も時間とともに徐々に低下することは承知の上だが、2回接種したことに比べて、3回目接種による追加的な価値は大幅に低いことが厚生労働省アドバイザリーボード、内閣官房AIシミュレーションプロジェクトチームの分析などに提出されているワクチンの有効性に関する試算でも明らかである。

 多くの国民が2回接種するまでに行動制限をすることで死亡者数を減らし、経済損失も減らせるとの論理は十分に成り立っていた。だが、すでに8割の国民が2回接種を終えた今、3回目接種に向けて時間稼ぎのために行動制限を課すというロジックの正当性は相対的に減少している。逆に、行動制限により感染拡大を抑制することは、集団免疫獲得の先送りになるという側面も強まると言える。

 例えば、集団免疫を獲得するために追加的に100万人の感染が必要であるとき、行動制限によって、仮に第6波で感染者数を50万人に抑えたとしても、第7波や第8波で感染者数が50万人に到達しなければ、集団免疫を獲得することはできないことになる。しかも、仮に感染力の強弱の程度などの要因により、第7・8波で感染者数50万人到達のペースが遅ければ、その分、行動制限による経済損失だけが増えてしまうということにもなりかねない。

ワクチン2回接種こそが
ゲームチェンジャー

 集団免疫の獲得に到達するには二つの方法が考えられる。一つは自然免疫で獲得すること、もう一つはワクチン接種によって多くの人が免疫を獲得することである。累計死亡者数を減らすという観点からすれば、明らかに後者の方法が得策だろう。だが、先に記したように3回目接種の追加的価値は、最初の2回接種よりも相対的に小さい。したがって、行動制限によって感染抑制させるのではなく、感染拡大を許容する政策の正当性が増している。

 多くの国民が3回目接種を終えるまで、その時間稼ぎとして行動制限を続けるとすれば、そのロジックは4回目接種、5回目接種でも成り立つことになる。このロジックは、反永久的に行動制限を正当化できるため、これに依存しすぎることにはリスクが伴うことも指摘しておきたい。それでは、社会経済への犠牲は膨らむ一方である。

 筆者の分析では3月2日現在、第6波は、重症化率が0.043%と第5波の約15分の1程度にすぎないが、先のロジックによって、オミクロン株の重症化率が低いから方向転換するのではなく、すでに8割の国民がワクチン2回接種を終えたことこそがゲームチェンジャーだと考える。事実、英米など海外では、2回接種が終わった時点で行動制限が緩和されている。

 以上を踏まえれば、感染症対策と社会経済活動との両立に向け、大きく方向転換するのは第5波の後、第6波の前が自然だったと言える。現実には、第6波において、感染拡大許容という方向にある程度舵を切ったが、時短要請などの行動制限策も継続された。

 欧米より圧倒的に感染者数、死者数が少ない中、国民のコロナ感染リスクに対する態度や価値観を所与とするならば、日本は、今後も海外と比べて相対的に感染者数・死者数が抑えられるものの、経済回復はますます遅れることになる。2年で終わるものが3年、いや、それ以上かかる懸念すらある。

日本に再び日常が訪れるのはいつになるだろうか (REUTERS/AFLO)

 果たして、いつまで現状のような選択を続けるのか。今まさに日本としての決断が迫られている。

出典:Wedge 2022年4月号

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