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ラオスのひと昔前に、小さな女の子だったチャンの話 第2話

子どもたちの日々

 
8歳の女の子チャンは、ナーヤーン村の小学2年生です。2歳年下の妹のフォンも小学校に行きたいのですが、フォンはまだ行けません。それは「入学適齢期」になっていないからでした。
 もっともチャンが小学生だったのは、もう何十年も前のことなのですけれど、そのころは今と違って、子どもの誕生日をちゃんと覚えている家なんて、あまりありませんでした。田植えのころに生まれたとか、稲刈りのころのお月さまがちょうど三日月のときに生まれたとか、そんなふうに子どもの生まれた日を覚えているのですが、うっかり子どもが5歳なのか6歳なのかわからなくなってしまう親もいました。だから、子どもが頭の上に腕をまわして、反対側の耳をつかめたら、小学校の入学適齢期だ! ということになっていました。皆さんも試してみてください! 小さい子というのは頭が大きくて腕が短いものですから、頭の上で手がパタパタするはずです。
 チャンは一年とちょっと前に耳をつかめるようになり、小学校に行くことが決まりました。けれども、妹のフォンがいくら「学校に行きたい」と言っても、耳がつかめないうちは、先生は学校に入れてくれないのです。

 小学校は、村の中ほどにあるお寺のとなりにありました。小さな学校で、先生はひとりだけ、生徒はたったの14人だけ。小学校1年生から3年生までが通う小学校です。チャンの家からは、走ればたったの1分くらいで着いてしまう近さでした。うっかり油断して遅刻しそうになりながらバタバタ走っていくと、先生だけじゃなくて、お寺のお坊さまにも叱られてしまうのでした。
 
 学校へは白いシャツに、男の子はズボン、女の子はシンと呼ぶ筒型のスカートをはいていきます。お母さんたちは、新しい学年になる前に、子どもたちの服をそろえました。それを1年間着るのです。チャンのお母さんも、大きな町のお店から白い布を買ってきて、ブラウスを作ってくれました。ポケットが下のほうについていて、そこに鉛筆や消しゴムを入れることができました。
 シンにする濃紺の布は、お母さんが自分で育てた綿花をつむいで藍で染め、自ら織り上げます。シンの裾には、3本の細く切った白い布が縫いつけられていました。その白い3本線の裾模様が、女の子の制服のしるしでした。ミシンなどはありませんでしたから、お母さんは、チクチクと手で縫ってくれたものです。
 
 こんな具合ですから、村の子どもたちは何枚も白いシャツを持っていません。だから、汚れたら、ほかの服でもかまいませんし、ちょっとくらい破れていても怒られませんでした。でも、顔や体を洗わないで学校に行けば、怒られました。先生は、登校してきた子どもたちひとりひとりの前に立ち、顔を見て、その次は手のひらと甲をひっくり返してよーく見てから、首の下をボールペンの腹でギュッとこすります。黒い汚れが出てきたら、
「裏の川で水浴びし直してこい!」
と言われました。たいていが、遅刻しそうになって顔や体を洗っていなかったときでしたけれど、先生に言われたら、子どもたちは川に走っていって、大あわてで服をぬぎ、水浴びをしなくてはなりませんでした。 
 
 学校へは、小さな肩掛けカバンを持っていきました。中にはノートと鉛筆、消しゴム、そして物差しが入っています。そのころ、子どもたちは教科書を持っていませんでした。教科書は先生が各教科1冊ずつ持っているだけだったのです。先生が教科書から黒板に書き写すと、子どもたちはそれを自分のノートに書きました。
 1年生はノートではなくて、小さな黒板を持っていきました。黒板の周りは黄色い枠で囲われていて、そこにはກ ຂ ຄ・・・・・・とラオスの文字26文字が書いてありました。みんな、それを見ながら、文字をいっしょうけんめい覚えるのです。
 
 先生は、授業が終われば優しいけれど、授業中はとても怖くて、ちゃんと答えられないと、
「さ、指を出しなさい」
と言いました。人差し指と中指を合わせて出すと、先生は物差しでピシンとたたきました。これは痛くて、どの子もギュッと目をつぶりました。 
 また、授業中にふざけたりすると、先生は怖い顔で、
「物差しを口にくわえて、一本足で立ちなさい!」
と言いました。チャンも同じ2年生のユイとクスクス笑いをして、立たされたことがありました。物差しを口にくわえて、グラグラしないように両手をのばして、一本足でしばらく立っていなくてはいけませんでした。
 だれかしら、しょっちゅう立たされていました。先生はひとりで、順番に1年生と2年生と3年生を教えるのですから、どうしたって、待っている子どもたちは、ふざけたり、イタズラしたりしたくなってしまうのです。
 
 先生が黒板に書いた問題をノートに写して、答えを書けなければ、午前中の授業が終わってもお昼ご飯に家に帰してもらえませんでした。
「居残り組だ。答えがわかるまでゆっくり考えなさい」
と言って、先生もご飯を食べずに、待っていました。あんまり長く時間がかかると、先生ときたら、天井のはりのところに渡した板に上がりこんで、昼寝を始めてしまいます。上からグウグウといびきが聞こえてきても、こっそりと抜け出すわけにはいきません。そんなことをしたら、あとでよけいに怒られてしまうからです。チャンもときどき、居残り組になりました。算数が苦手だったのです。
 ある時、先生が梁の上で寝てしまった後、窓の外からトーン兄ちゃんの顔がのぞきました。びっくりしてよく見ると、兄ちゃんは先生の自転車の上にそっとのぼって、窓から顔を出していました。兄ちゃんはシーっと口に指を当ててから、声を出さずに、いっしょうけんめい口を動かしました。
「ハー・シッブ・ホック」
 39+17の答えは、56だって、口の形で教えてくれたのです。チャンは、その答えを書くと、兄ちゃんが窓から姿を消した後に、寝ている先生を大きな声で呼びました。
「先生、できました!」 
 
 一日の授業が終わると、子どもたちははじけたように外へ飛び出します。でも週に何回かは、となりのお寺の境内の掃除を手伝いました。そんな日は、先のとがった棒を持っていきます。境内に落ちた菩提樹ぼだいじゅの葉っぱは、その棒で突いて刺していくと、手で拾うより早いからです。棒に葉っぱを刺して集めては、にくべました。そういうときは、先生もいっしょに掃除をしながら、ニコニコ笑って、お坊さまと冗談を言ったりしたものです。
 
 お寺の掃除がない日でも、子どもたちは学校から一度家に帰った後、お寺の境内に集まります。チャンは下の妹のラーをおんぶしていきました。仲良しのユイは弟をおんぶしていました。ほかの子だってみんな子守をしながら遊んだのです。ゴム跳びや、石けり、ケンパーなどをしました。
 今のようなおもちゃはありませんでした。遊び道具は、森の木の実。家にはタマリンドの立派な木がありましたから、その実が熟す乾季のころになると、毎日のように木にのぼって、甘酸っぱくてねっとりとした実を食べては、その中の種をたくさん集めておきました。それでおはじきをしたのです。
 マックバーの種は、大きくて平たいコインみたいでした。それは森の大木にからみつくツルに垂れ下がる大きなさやの中に入っています。黒くてツヤツヤ光るマックバーの種は特別上等なおはじきになりました。指で飛ばして、当てっこをして遊ぶのです。

 木の枝を折った棒も遊び道具になりました。まずは棒を四辺交互に塔のように積み上げておきます。ひとりずつ順番に手持ちの棒を放り上げては、積み上げた棒を上からとっていくのです。最後まで棒の塔をくずさずにたくさんとれた勝者は、ごほうびとして水が飲めました。水は素焼きのつぼに入っている井戸水です。水なんて本当はいつでも飲めましたが、遊びで勝って飲む水は、いつもよりおいしい気がするから不思議でした。
 
 ほかにも、ビー玉くらいの大きさに丸めて乾かした土の玉を、木の枝をけずって作ったパチンコで飛ばして、小鳥を撃ったりもしました。家の周りの木々には、いろいろな美しい小鳥たちが、いつでもさえずりに来ていましたから、土の玉が飛んでくると、小鳥たちはサーッと飛び去りました。不運にも玉に当たった小鳥は、もちろんその晩のおかずに加わります。でも、小鳥が落ちてきたと同時にヤマネコが飛び出てきて、くわえていってしまうことだってあったのです。

 遊びの中で何よりもおもしろかったのは、川遊びでした。チャンの家の裏にある竹やぶを抜けていくと、そこはもうフアイスア川でした。川の水は一年中豊かに流れ、雨の降らない乾季でも、水は枯れませんでした。
 川では魚はもちろん、カワウソたちも遊んでいました。チャンがもっと小さかったころ、初めてカワウソを見て、お母さんに聞いたものです。
「川にいるあの犬みたいのなーに? わたしのこと食べない?」
 するとお母さんは笑って言いました。
「だいじょうぶ。あれはナーク(カワウソ)よ。魚が大好きなの。あんたのことなんて食べないわ」
 カワウソたちは川の向こう岸に住んでいて、チョケチョケチョケチョケ……と鳴きながら川を自由自在に泳ぎまわります。魚を追いかけたり、水面を流れる水草とたわむれたり、とても楽しそうです。でも、カワウソはカワウソたちで、人間の子どもは人間の子どもたちでそれぞれ遊び、おたがいに邪魔をすることはありませんでした。
 
 チャンは友だちのユイといつもいっしょに遊びます。お母さんが家にいて、妹をおんぶしなくていいときは、すぐに川へと駆け出していきました。ユイもほかの子たちもみんなそうでした。川に着くと、大きな石の上に服をぬぎすて、裸んぼうになって飛びこみます。水は澄んでいて冷たいのですが、へっちゃらです。もぐると泡の向こうに魚や水草が見えました。
「わたしはこっちから行くわよ」
 ユイは近くに生えている大きな木にのぼりました。川の方に張り出した枝が、子どもたちの飛びこみ台です。バッシャーン! 大きなしぶきが飛びます。ふたりは順番こに枝にのぼっては飛びこみました。
 次にチャンは、物干しからとってきたお母さんの大きな水浴び用のシン(木綿の薄い腰巻用の布)を胸のところから体に巻きつけました。裸が恥ずかしいからじゃありません。そうやって布を体に巻きつけて、裾を持ってふわっと空気を入れるように飛びこむと、おなかのところに空気がたまって、まるで浮き袋を抱えたみたいになるのです。チャンがその浮きを抱えながら、川をプカプカ流れていくと、カワウソがびっくりしたように泳ぎ去りました。すぐにユイもまねしました。ユイも、お母さんのシンを持ってきていたのです。お母さんは、干して乾いたはずのシンがいつもぬれているので、よく怒りました。でも、いくら怒られたっておもしろいのですから、やめられるものではありません。
 
 川上からは、男の子たちが、バナナの幹を切ってつなげたいかだに乗ってきました。バナナの幹は水にプカプカ浮くのです。チャンとユイはその筏をひっくり返しにかかりました。男の子たちもひっくり返されまいと応戦します。カワウソたちは、また向こうでチョケチョケと鳴いて、不思議そうに見ています。

「チャーン! チャーン!」
 家の方からお母さんの声が聞こえてきました。楽しい時間のおしまいは、いつもこうでした。まだまだ遊んでいたいのに、たいていお母さんに呼ばれてしまうのです。チャンがしぶしぶ川から上がると、背中にビシャッと何かが当たりました。泥です。ふりかえると、ユイが泥を投げた手を水の上に出して言いました。
「だって、先に帰るからいけないのよ」
「しかたないじゃないの! お母さんが呼ぶんだから」
 チャンは泥がついた背中を洗いに、川の中にもどりました。子どもたちは、だれかが先に帰ろうとすると、川の底の泥を投げつけては引き止めて、また遊ぶのでした。
「チャーン! 早くおいで」
 またお母さんの声がしました。チャンはぺろっと舌を出すと、あわてて川から出て、ぬれた体にすばやく服を着ると、ぬれたお母さんのシンを抱えて走っていきました。
 
 子どもたちは、家の手伝いもよくしました。
 天秤棒てんびんぼうの両側にバケツをかけて水を運ぶのは、どこの家でも子どもたちの仕事でした。飲み水は、サーン・ゴックヤーン(ヤーンの木の井戸)にみに行くのです。チャンの家から井戸までは何十メートルもあったので、水をいっぱいに入れた重いバケツから水をこぼさないように往復するのは大変でした。しかも一回ではすみません。何度も往復するのです。
 市場には真鍮しんちゅうのバケツも売られていましたが、村のほとんどの家では、一斗缶の内側に木で取っ手をつけたものを「ピック」と呼んで、バケツ代わりに使っていました。チャンの家もそうでした。竹を割いてカゴを編み、水漏れしないようキーシーというロウ・・・・・・それは森の小蜂が作る巣からとったロウなのですが・・・・・・をぬって、水汲みに使う人もいました。
「サーン・ゴックヤーン」は、ただ土を掘っただけの素朴な井戸で、雨が降ったときに泥水が入りこまないように、井戸のふちは盛り上げた土で固められていました。中には青く見えるほどに澄んだ水が、いつもなみなみとたまっていました。底に敷きつめられた石のすきまからブッブッブッブ・・・・・・と水が湧き出しているのが見えました。井戸のわきには板が敷いてあったので、子どもたちはそこに天秤棒をおろし、ひしゃくで水をピックやバケツに汲み入れました。二つがいっぱいになると、天秤棒に引っかけて、よいしょっと腰を上げます。でも水汲みを始めたばかりの小さな子は、水をいっぱい入れることはありません。重くて家までたどり着けないし、こぼしてしまうからです。でも少し大きくなってくると、もうみんな慣れたもので、なみなみと水を入れても、キュッキュッと腰を動かしながら、バランスをとって上手に歩きました。 
 夕方、子どもたちは井戸と家を何往復もします。家までたどり着くと、そのままはしごをのぼって、素焼きの壺に水を入れました。この井戸の水を飲み水と料理に使い、お皿洗いやもち米を蒸すのには、川から汲んだ水を使ったのです。
 水汲み、薪取まきとり、足踏み臼での精米、皿洗い、もち米蒸し、子守・・・・・・村の子どもたちは、遊ぶ時間の合間や遊びながらも、家の手伝いをあれこれと任され、だんだんできるようになっていくのでした。

第3話につづく(10月14日配信予定)


安井清子(やすい きよこ)
東京都生まれ。国際基督教大学卒業。1985年に、NGOのスタッフとして、タイのラオス難民キャンプでモン族の子どもたちのための図書館活動に携わって以来、現在もラオスにて子ども図書館の活動に関わる。「ラオス山の子ども文庫基金」代表。著書に『ラオス 山の村に図書館ができた』(福音館書店)、『ラオスの山からやってきたモンの民話』(ディンディガルベル)など多数。日本とラオスとの相互理解の促進において長年の功績が称えられ、 2022年8月に外務大臣表彰を受賞。
ラオスのナーヤーン村在住。

〈関連サイト〉

ラオス山の子ども文庫基金のHP(~2015)
パヌンのかぼちゃ畑(個人のHP ~2015)
ブログ 子ども・絵本・ラオスの生活 (2014~ )
安井清子Facebook


 




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