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とんでもなく頑固者で、何度も死にかけて、92年の命が尽きた祖父

「心停止」の意味がちゃんと理解できていなかった。電話が切れて、何をしたらいいか、私の思考は停止した。

*エピローグ

その1週間前に、300km離れて暮らす母が、父親(わたしの祖父)に会いに病院へ行った。コロナの関係で、1日に1名、10分のみの面会しかできないと言われ、病院の近くに住んでおり母についてきた私は、セミの鳴き声がわんわんと響き蒸し暑かったため、近くの団地の中にあるスーパーに入った。
5月に91歳を迎えた祖父。自立型老人ホームに入居していたが半年前に急に倒れ、緊急入院し覚悟するも何とか退院し、介護をつけるも誤嚥性肺炎を患い、血中酸素濃度が低下しいつどうなるかわからないと言われ、また回復した。しかし、倒れてから約半年、再び入院、転院し、鼻には管を通し点滴をした状態で、寝たきりとなった。もう老人ホームには戻れない、このまま最期を迎えることになるだろう、長ければ3ヶ月ほどの命だと言われていた。

母はきっとまた涙を浮かべて戻ってくるんだろうな、と分かっていた。スーパーで飲み物を買って、待っていた。10分と言っていたわりに30分ぐらい経って、いつものように「お待たせ」と母が戻ってきた。
「もうずっと寝てて、何回も話しかけても気が付かないままだから、10分経ったし諦めて帰ろうかなと思ってたら、パッと目が開いて、起きたのよ!びっくりしたわ!帰る時も、手を挙げてくれて。粘ってよかったわ〜」。私が買ったペットボトルのジュースを飲みながら、タクシーで一気に話した。

それから一週間後、盆を迎えずに祖父は天国に逝ってしまったのだった。
ああ、やっと死ねた。そう思っている気がする。「さっさと死んだほうがマシだよ」、そう言っていたから。

江戸っ子、新橋で生まれ育った祖父は、まさに戦前戦後を生き延びた、もう今では稀な日本人だった。
戦時中の教育、天皇陛下の言葉、軍歌、何十年経っても、それらを空で言えるほど頭に染み付いていた。
「当時は、こっちは当たり前だと思ってたんだよ。みんな軍歌を歌わされて、天皇陛下万歳、鬼畜米英つってね。朝鮮人中国人もいたけど、みんな学校でいじめてたっていうかね。子供も大人もみんな右向け右だよ。日本がね、負けるなんてね、考えもしなかったんだから」。
まだ幼き少年たちはみんな、そう聞かされてきたままに、大人たち、権力ある者たちの言うことを信じていたようだ。何年の何日に、新聞でどう報道されて、海戦が始まって、どこを日本軍が勝ち取ったか、細かなことまで覚えていた。

そして東京大空襲の時、B29の爆弾が庭に落ちる。
「あっ、と思ったらすごい音がして、もう終わりだと思ったんだよね。運が良くて、たまたま、不発弾だった。たまたまだよ、若干低いところから落ちたんだと思う。目の前に落ちた」。
周りは焼け野原となった。祖父は家族で生き延び、玉音放送を聴くことになる。

ただ、戦後の暮らしも大変だった。祖父の父は闇市で家族を支えていた。弟と妹もいるので、とにかくその日のお金が必要だった。そんな人がそこら中、日本中にいたのだ。(今聞けばある程度理解できるが、小学生の時に闇市の話を聞いた時は、それはそれは違法な手段で悪いことをした、バレたら終わりのことをして生きたんだ、なんて思った。)

祖父は必死に勉強し、国立大学の獣医学部へ入学する。長男であるため、大学へ行くことが許されたが、弟は高卒で就職した。そしてお金がないので、国立以外をうける選択肢はもちろんなかった。そんな状況で、実は若い頃に結核を患い、そこでも命を取り止めた経験があったため、医者を目指した結果、獣医学でも基本は同じだということで進んだという。

そして真面目に勉強し、いざ就職となるのだが、その時にまた壁が立ちはだかる。「結核」だ。「結核にかかったというだけで、就職を断られた。治ってるのに。」そう祖父は怒りつつ言った。
民間にはことごとく落ち、公務員となった。

そしてほどなく結婚し、名古屋に転勤した時だった。歴史に残る大災害に見舞われたのは、引越し翌日。「伊勢湾台風」が、直撃したのだった。
幸い身体は無事だったが、窓ガラスは割れ、買ったばかりの洗濯機はベランダの端から端まで飛び、住んでいた団地も浸水。あたりも水浸しでとても歩けるような状況ではなかった。早速、祖父は公務員だったために周囲の住民のため朝から夜遅くまで働きつづけた。「ほんとにあんな台風は経験したことないよ。ボートみたいなので、回ったんだから」。

それほど経たないうちに、転機が訪れる。大学時代同じ研究室で、祖父のことを知っていた先輩が、国立感染症研究所へ来ないかと、声をかけてくれたという。祖父の真面目さやその力量を見て引き抜いてくれたことを、祖父はとても感謝していた。「本当にね、ありがたいよ。」

私の母を含む子供二人と、家族四人で関東で暮らしながら、祖父は研究者として勤勉に働きつつ、幼い頃から愛し続ける鉄道で旅をしたり、仕事を通じてアフリカやタイなど、海外にも行った。
ただ、江戸っ子の祖父は口下手で、かつ研究者であるからこそ誰とでも社交的ではなく、何かと細かく目分量なんてもってのほか。こだわったら手を抜かない。待つのは嫌いで、飲食店に家族で食べに行って、出てくるのが遅い時に「どこまで材料をとりに行ってるんだ!」と怒ったことがあるぐらい。
そして鉄道が好きすぎて、駅名のパネルやつり革などのグッズや模型なども収集しまくり、家の中にはたくさん鉄道グッズが飾られていた。

そうして、戦後の時代を、まさに必死に働き、裕福ではなくとも人並みの経済力を得て、子供二人も大学卒業し自立、立派に家庭を築きあげた頃だった。
定年を迎えるにあたって、新しい「選択」が祖父のもとにやってきた。
「それで僕がね、ポリオの研究をしていたから、中国全土を回ることになったんだよ。」
父も関わっていた国内でのポリオ流行が収束した時、まだまだ中国は収束しておらず、ポリオ感染症が蔓延していた。そこで、JICAで日本の代表として、ポリオ撲滅のために中国へ渡ってその知見や経験を生かしてもらえないか、という話だ。老後のために、土地を買い、家も建てる準備も進んでいた。
しかし、60歳で父は海を渡り、日本の何倍もある中国全土を端から端まで、現地や日本の専門家たちと共に、脚を使って回ったのだった。
祖母もはじめは日本にいたが、祖父のもとへ渡ったのはすぐだった。ちょうどその頃に、私は日本で産声を上げた。1990年代半ば、まだ中国は飛行機も電車もインフラが全く整っていないので、ただただ車で、東西南北を横断するしかなかったという。
「非常に現地の中国の人たちは聡明だった。僕がね、何か説明したらすぐに理解して、なんでも手配してくれて、泊まるところも確保してくれて。優秀な人たちと仕事していた。」「物価はもうそれは安かったし、でも待遇はちゃんとしていてね、食べ物ももういろんな美味しいものをたくさん食べたよ。みんな連れてってくれるんだよね。」
過酷な状況も多かっただろうし、若くはない年齢で行ったにもかかわらず、祖父は根をあげることもなければ、愚痴を言うこともなく、むしろ印象的だったことの数々を、のちに私にたくさん話してくれた。寡黙な祖父が、写真を見せながら、ここへ行った、ここが良かった、人が親切だった、と。

当初は6年ぐらいで撲滅できるだろうと言われていたのに、想定以上の時間がかかり、結局は約10年もいた。私も6歳の時に、祖父と祖母に会いに、家族で北京へ渡ったのが、人生初の海外旅行だった。

もう帰国した時には祖父も祖母も70歳前後。私も学生になっており、関西から遥々関東の祖父の家に行くと、とにかくどこの国のものかわからない(タイの象の置物とか、ケニアなどのお面とか、多くの中国の骨董品とか)いろいろな物が置いてあって、不思議な匂いがしていた。そこに、どんなストーリーがあるかなんて、考えたこともなく。むしろ、ちょっと気味が悪いものもあった。笑

でも、少し大人になった時に、私は興味本意で、祖父にこれまで記載したような、祖父の人生について初めて聞いた。大学までは関西にいたためお盆と正月しか会っていなかったが、社会人になり上京してからは会う頻度が増えた。寡黙で、研究者気質な祖父なので、何を話そうかな〜といつも思ったときに、気が付いたら昔の話を聞いていることが多かった。
ただ、祖母が先に亡くなってから、祖父は生きがいを失ってしまった。「何のために生きてるんだろうね。」そう言われたら、返しようがなくて、「私もまだ結婚してないし、孫の成長を見ないと」なんて適当に笑っていた。祖父は自立しているし頭もしっかりしていて、90まで自分でご飯も作って全てのことを自分でしていた。

「ほんとにね、自分のことができなくなったら困るだろ、迷惑かけてまでこっちは生きていたくないんだから」。そう言って、少しぐらい贅沢すればいいのに、ずっとスーパーで安いものを買っては食事やパンまで作り、使い古した服を着続け、いろいろなものを自分でやる姿を、私は半分、理解できないでいた。もう人生も終わりに近づいているのに、少しぐらい甘えればいいのに。一度決めたら揺らがない、どこまでも頑固な祖父だ。

祖父の人生は波乱万丈だ。
戦争、病気、災害に、過酷な経験をした。実は最初の子ども(母の兄弟)も生まれてすぐに亡くしている。妻にも先立たれ、落ち着いた生活はほんの数年のような気がするし、決して素晴らしい人生、とは言えないかもしれない。
ただ、そんな祖父だから、誰よりも幸せが簡単に手に入るものではないと知っているし、差別があることも分かっているし、当たり前の日々が崩れることも知っている。いくらお金があっても自分のためには使えない。何よりも生きることの意味が分からなくなると苦しい。でも、命の大切さは誰より知っている。
病気で差別を受け、何十年の時を経て感染症撲滅に携わることも、
戦時中に差別をしていた国で、何十年の時を経て働き人々の命を救ったことも、きっと繋がっている。

何度も死にかけて、生きて、を繰り返した。身体も心も、最期の最期まで。
その生き様が、いろんなことを教えてくれた。
誰よりも平和を願い、鉄道を愛し、命を大事に、実直に生きた92年。
同じように必死に生きた人たちが、今日も人生を終えているのだと思うと、何だか無性に寂しくて。
今の世の中に、不安を覚える。
でも、良いことも悪いことも、世の中も人も、繋がっていく。
中国土産の帽子をかぶった、幼い私と祖父の写真を、壁に飾った。


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