長い雨糸
揺れる電車の中で、ぼんやりと考える。
――今日は雨じゃない。
雨が降らないと言う事は、きっと彼女は現れない。推測なのか経験なのか、そう感じる。これも、第六感に値するのだろうか。
人には、第六感と言うものが存在するらしい。らしい、という他ないのは、否定の証明も肯定の証明も出来ないからだ。
だけど、背中越しに誰かの視線を感じるなんて事は、少なくとも現代の科学じゃ解明出来ていない。
その視線を感じたのは、いつからだろう。
ただ、雨の湿り気だけが、その視線とともに感じられた事だけを覚えている。
その視線をあきらかに感じたのは、二度目なのか三度目なのか。転勤してから二ヶ月。どうやら、デジャ・ヴ――既視感というものに気付いたからだった。
その視線を感じて、何気なく振り返った時、女の子がいる。
女の子、と言ったのは、高校生だろうか? 制服を着ていたからだ。
――ああ。この子が見ていたのか。
最初の内は、それだけしか感じなかったのだろう。気にも留めなかった。あるいは、自分のネクタイが曲がっているとか、社会の窓でも開いているのかと、我が振りに気を配っただけ。
それが何度か続いて、ようやく、いつも同じ女の子である事実に気付いたのだ。
今時見掛けない、艶やかな黒髪は腰までのび、制服も今風とは言い難いセーラー服。自分より一時代前なら、喜ぶ男は山ほどいそうだ。
ここいらの学校の制服に詳しい訳ではないが、見掛けないデザインだ。いや、何処にでもあるセーラー服だが、着こなしがどうにも今風ではないのか。
少なくとも、明るい性格には見えなかった。文科系のクラブに属していそうな、独特の雰囲気がある。少なくとも体育会系じゃない。
特別に美しい訳ではないが、何か挽きつけるものがある。もし、自分がアイドルのスカウトをする立場だとしたら、きっと、彼女の資質を感じているのだろう。一見バランスの悪い、ともすれば不細工な――、だが他にはないものを有している。
でも、今日は見掛けない。
何故なら、雨が降っていないからだ。
彼女を見掛けるのは、いつも雨降りだ。偶然なのか否か、雨の電車でしか、彼女を見つける事は出来ない。
そして、自分が無意識の内に彼女を探している事に気付かされるのだった。
最初は、彼女の視線が自分を探していたはずなのに。
いや、それさえも単なる思い上がりでしかない可能性は充分過ぎるほど充分だ。
電車が降車駅につく。
あきらめと、寂しさがこみ上げるのを打ち消した。たとえ彼女を見付ける事が出来るとして、一体、何になると言うのだ? 自分がまだ、彼女ぐらいの年であるならまだしも、その倍は生きてしまった自分に、何が出来ると言うのだ?
見ているだけで幸せだなどと言う、甘酸っぱい青年期は、もう遥かな昔。そんなノスタルジアという奴を振り払うようにして、下車する。
毎日の、変わりばえのしない改札を抜けると、突然と風の匂いが変わった。
雨の匂いだ。
――ツいてない。
夕立という、当たり前だが、突然の雨。
まったく、ついていない。電車の中で降ってれば、彼女に会えたかも知れないのに。いや、それ以前に傘を持っていない事を呪うべきか。
家までは、結構な距離を歩かなくてはならない。少し待つか、それとも。
ほんの数秒だけ考えて、ロータリーのタクシーを拾う。
「本町まで」
そう告げた時、不意に視線を感じる。
「本町ね。はい。いやぁ、突然と降り出しましたねぇ」
タクシーの運ちゃんの声も聞かずに、リアウィンドウへと振り返った。
いた。あの子だ。
遠目だが、あのセーラー服には間違いない。彼女はこのタクシーを見送るようにしてから、持っていた傘を差す。
「・・・ちょっと停め・・・」
「はい?」
「いや、何でもない」
自分が何をしようとしているのか冷静に考え直し、口を噤んだ。だが、この胸の高鳴りようは何だ? 彼女がこの近辺に住んでいるかも知れないというだけで。
雨が降っていた。オフィスの窓を叩く、雨粒を眺める。いや駄目だ。仕事に集中しなければ。
そう思った瞬間、終業のベルが鳴る。口々にこぼしながら、挨拶とともに席を立つ部下達。扱いにくい部下の一人である高島が、前を通り過ぎた。
「高島君、ちょっと。・・・いや、どうでもいい話なんだが」
「何っスか?」
高島が、軽薄な口調で作り笑いをいする。
「いや、本当にどうでもいい話なんだが、以前、女子高生が好きとか言ってたよな?」
「何スか、係長。突然」
自分の問い掛けが、あまりにも頓狂である事に自ら呆れながらも、自嘲気味に会話を続ける。
「この制服って、どの高校のものか、とか・・・、わかるかね?」
電話の横のメモに、仕事もせず描いた落書きのようなセーラー服を高島に見せる。
細部まで覚えている訳じゃないから、余計に落書きだ。
「これまたオーソドックスなセーラーっスね。ってか係長、今時こんな丈のスカート、ないっスよ」
そんな事はわかっている。苛立ちを隠し切れない。
「そうか。あんまり見掛けない制服だったんで気になってね」
「係長、カタブツかと思ってたら意外っスね。でも、気を付けて下さいよ。最近はすぐに手が後ろに回っちゃいますから」
腹が立った事は事実だが、高島の言う事はもっともだった。知ってどうする? 知るだけで満足な訳ではあるまい。
「そういうんじゃない」と言い返しはしたが、高島の下卑た笑いの方が正しい。そういうのだから。
今日は進まなかった書類を鞄に詰め直し、社屋を出る。
今日の天気予報は雨だった。朝から、少し降っていた。それでも傘を持ってきていないのは、そう、「そういうの」だ。
電車の中で、彼女を見付ける事は出来なかったが、まだ諦めた訳じゃなかった。
まだ、駅がある。時間帯も、先日と同じ。そして、その予想は的中した。
視線を感じる。だが、顔は向けず、視線だけで彼女を探す。
駅舎の柱に身を預け、立っているセーラー服。間違いない。彼女だ。
その傍を視線も合わさずに、わざとゆっくり通り抜け、駅を出る。手で雨に触れ、ロータリーと雨空を交互に見る。勿論、演技だ。傘なんて、目の前の売店で売ってる。今時の高校生なら、もっと上手にやるだろう、白々しい演技。
だが、自分が動いて舞台を動かすようなシナリオが書ける訳じゃない。見え透いた状況設定に、彼女が動いてくれる事を願うだけ。
あの視線は、背中に突き刺さっている。
不意に、その視線の重圧が消えた。
慌てて振り返る。
「・・・よかったら、使って下さい」
彼女が、手に持っていた傘を、差し出していた。
それこそ、心臓が止まるかと思うような瞬間。
「あ・・・ありがとう」
そう答えるのが精一杯だった。「一緒にそこまで」なんて言う余裕などなく、ただ差し出された、女物の傘に手を伸ばす事しか出来ない。まるで舞いあがった少年のように。
彼女は、少しだけ笑って、きびすを返した。
視線で彼女を追う事しか出来ず、雨の中に、ひとりで立ち尽くしていた。
愕然とした。
それは、傘に刻印された彼女の名前だった。
Hozumi Mitarai
御手洗 保泉。その名前を、知っている。いや、同姓同名と言う可能性もある。頭ではそう考えながらも、その線は完全に否定されていた。珍しい名前だからという訳ではない。
押入れの中から、古い卒業アルバムを掘り起こす。中学時代のものだ。御手洗保泉の名前は、そこにあった。
そして、彼女はそこにいた。
あの時に感じたデジャ・ヴは、この時から始まっていたのか?
彼女は、集合写真と個別写真以外には、ほとんど写っていない。
とにかく彼女の印象は希薄だったが、確かに記憶の符号が一致する。そして、同一人物かと思えるほどに似ているのだ。
だが、何年前の話だ? そんな事はありえない。
唯一残される可能性は、彼女の娘だ。早ければ、自分にだってあんな年頃の娘がいるかも知れない。見慣れぬ制服も、かつての住所から考えれば、有り得るかも知れない。
次の日、会社を休んで、名簿に記された住所を尋ねる。
少ならず「傘を返す」という名目がある事が、行動力に後押しをしていた。
自分の中学時代の住所が残っている確立はどれほどだと言うのだろう。
だが奇跡的に、そこは存在していた。
「御手洗」と書かれた表札は古く、建物も建築以来何年の時を重ねたのだろう。
古える指先で、インターホンを押す。
やや待つと、しわがれた女の声が応対した。
「はい」
この声が、自分の同級生である御手洗保泉のものだろうか。何と言えばいい? お前の娘に恋をした? 勿論、そんな馬鹿な事は言わない。
「すみません、先日こちらの娘さんに傘をお借りしたと思うのですが」
「・・・はあ。少々お待ち下さい」
怪訝そうな声の後、玄関のドアが開けられる。その家屋から姿を現したのは、老婆だった。
「どちらさま・・・」
老婆が、品定めをするように、ゆっくりと目線を動かす。歳から考えれば、御手洗保泉の母だろうか。娘か孫に会う覚悟が解けて、脱力する。
「先日、駅で、こちらの娘さんに傘をお借りしたと思うのですが、それをお返しに・・・」
落胆を隠し切れないが、同時に安心が訪れる。だが、それも一瞬だった。
「あなた・・・、荒木君?」
自分の名前を言い当てられ、動揺が襲う。まさか、この老婆が御手洗保泉本人だと言うのか?
老婆は、やはり保泉の母だった。
そして、傘を見た彼女も驚きを隠し切れなかった。傘は、誰も持ち出すはずがなかったのだから。
その意味を、和室の仏壇の前に通されてから理解する。
彼女は――、御手洗保泉は死んでいた。
仏壇の中で、寂しげに笑う彼女が着ているのは、あのセーラー服。
高校生のままで止まった写真は、電車の中の女と完全に一致する。
これが現実なのか、それとも夢なのか、あるいは誰かの仕掛けた悪戯なのか。
だが、全て幽霊って奴の責任にする方が、気が楽だった。
御手洗保泉は、高校進学の後、同級生達による激しい「いじめ」とやらにさいなまれ、列車に飛び込んで死を選んだ。その日は、朝からずっと、雨だったらしい。
その日、彼女は、死路の旅に出た。
その時になって、ようやく思い出す。彼女は、中学時代も同様の扱いを受けていた。自分が「いじめ」を率先した記憶はないが、止める事もなかった。あるいは、その不甲斐ない思いが、記憶を混濁させていたのだろうか。
そして、彼方の過去から、今更になって御手洗保泉の想いを知る事になる。
彼女が、淡い気持ちで追っていた目線の先にいたのは、自分だと言う事。
保泉の母が、彼女との会話から、何度も自分の名前を聞いたらしい。彼女の死後、幾度も幾度もアルバムを見返し、荒木の名前と顔を見つけたのだ。
仏壇で寂しく笑う彼女に手を合わせ、御手洗の家を後にした。
帰りの列車の中で、ぼんやりと思い出す。
自分が、あの「いじめ」を止められていたら?
だが、そんな問いは無意味だ。今更になって、何を取り返せると言うのだろう。
車窓の向こうでは、雨が降っていた。
――もう、彼女に会う事はないのだろうか?
彼女が、自分の事を好いていた?
いや、そんな記憶はない。
彼女の事は、記憶の片隅に留めている程度で、ほとんど何も覚えていないのだ。
――いや、違う。
心臓が、一度だけ大きく高鳴る。
電車が、トンネルに入った。
耳鳴りとともに、暗転する車内。
黒くなったガラス窓に、自分が映る。
そして、自分の背後に立つ、セーラー服。御手洗保泉。
彼女が微笑みかける。
「君が、俺の事を好きだった?」
暗い、窓ガラスに向けて呟く。
鏡となった窓ガラスに映る、女が答える。
「そんな訳、ないじゃない」
女が薄く、唇を歪めた。
――ああ、そうだ。覚えていないんじゃない。俺は、記憶を捏造してたんだ。
窓ガラスの端に、老婆が映っていた。
トンネルは、何処までも続いているかのように、永く永く感じられる。
それはとても、永く永く――。
小説の「しょ」 3つの言葉で短編小説
第5回 「魔法」 「落とし穴」 「道」投稿作品
本日は、記事を書く時間がなかったので、20年ぐらい前に書いて応募した短編小説でお茶を濁しておきます。
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。