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【それが人生】野菜でもなく魚でもなく”人間”として存在するとはどういうことか?

※本noteは、いずれ公開するYouTubeの動画の原稿です。

今回は、存在論(Ontologie)についてお話しします。存在論は、「存在とは何か」について問い、言葉にしてアレコレ議論していくという哲学の一分野です。

とはいえ、今回はパンピーでもわかるように素朴に考えていきたいと思うんですよね。鉛筆でもなくパプリカでもなくマグロでもなく犬でもなく、他ならぬ”人間として存在してる”とはどういうことなんだということについて、直感的な説明を試みます。

「なんでオレ/ワタシってこうやって生きているんだろう?」
「どうせ死んじゃうのに生きる意味ってあるのかなー?」
「人間って他のモノとか動物と違って特別な存在な気がするなぁー」

と思ったことのある方は、ぜひこの動画(note)をご覧ください。

人間は「実存している」

「人間はどのように存在している」のでしょうか?この問いに対しては、次のように答えることができるのです。すなわち、「人間とは、”実存”という様式で存在している」、と。野菜も魚も”実存”していません。

ここでみなさん疑問に思うはずです。「なんすか、実存って?」ってね(ブラウザバックしないでー泣)。

実存とは簡単に言えば、「自分ってどうやって行動したらいいんだろう?と疑問に思って、行動の候補挙げて、どれかの選択肢を選んで行動していく」ということなんですね。

【キーワード】実存

実存において重要な要素を分解すると、

①言葉で疑問に思う
②自分が自分自身の存在について気づいている
③自らの行為を自分で選択して実行することができる

となります。この3つの要素満たせるのって、人間だけじゃないですか?ってことです。だから、人間として存在してるってことは「実存している」ことだって言えるんですね。

問うことが、すべての物事に先立つ

この3つの要素を、それぞれ掘り下げてみましょう。まず、①言葉で疑問に思う、についてです。私は(というか”原理的には”)、すべての事象に先行するのは「問い」、人間精神が「問うこと」であると考えています。

どういうことでしょうか? 「ビックバンがあって、地球ができて、ホモ・サピエンスという種が生まれて、で、最近お前が生まれたんちゃうか?」と思ったり、「神様が全てを創って、神様のお力で君も生まれたんじゃんないの?」と思う方もいるかもしれません。

でも、よくよく考えてみてください。「これ何?」って一度も疑問に思わなければ、いわば目に入るものすべて全スルーなわけで、いわば「生きた屍」ではないでしょうか。
つまり私たちは、「違和感を言葉にして、自分が捉えているものを問い確かめる」ということを繰り返すことを通して、常に移ろい行く世界の中で「確かさ」を見出しているのです。

自分の存在を自覚できていること

次に、実存の②自分が自分自身の存在に気づいているという要素についてです。これは、何を感じるにしても考えるにしてもその感じ手ないし思考の担い手たる「自己」がいて、それが他ならぬ自分だよねと思っているということです。

回りくどいですね笑
具体例から考えてみましょう。

例えば、目の前に「缶コーヒーがある」というこ
とを知覚する・考えるという場合です。この状況を言葉にする場合を、「缶コーヒーがある”と私が知覚している」と言うこともできますよね。つまり、感情も思考も一人称の「私」がその担い手なのです。

ここで重要なのは、みなさんが「コーヒーという思考が生じているだけで、オレは存在していないだよね」というサイコパスでないということです笑 (なお、ここでのサイコパスは単にヤバいやつという意味です。)

まとめると、何かを感じるのも考えるのも一人称の私が実践しているのであり、そしてそうやって私が実践してることを自覚しているということなのです。

自分の行為を常に選んでしまっているということ

最後に、実存の「③自らの行為を自分で選択して実行することができる」という要素についてです。

仮にあなたが犯罪者である施設に拘束されているとしましょう。「いま縛られていると感じる」「どこかの施設に監禁されていると思う」と感じたり思ったりしたとして、ガッチガチに拘束されていたら何もできないですよね笑 でも、そうした中でも、尋問してくる人からの質問にどう受け答えしよう
とか、出されたご飯をどういうスピードで食べようくらいは自由度があるわけです。

極端な例を出しましたが、人間である限り、つまり実存している限り、常にいくつかの行動の選択肢が浮かんできて、そのうちのどれかの行動を選びとっていかなきゃならないということです。

これは、「ダラダラ何もしない」という場合もそうです。「何もしないということ」を選んだと言えるから
です。ダラダラ過ごすと言っても、「あなたへのおすすめとして出てきた動画をダラダラ見続ける」、「なんとなく冷蔵庫に飲み物を取りに行った」という行動を選んだよねってことです。

人間は、常に行動選択肢が浮かんでいて、そのうちのどれかの選択肢を意識的か無意識的かを問わず、選び続けていると言えるのです。

まとめ

今回は、今回は、「人間ってどう存在しているの?」という問いに対して、「実存という様式(スタイル)で存在している」と答えました。

そしてその実存の中身は大きく3つの要素で構成されているとしました。

①言葉で疑問に思う
②自分が自分自身の存在について気づいている
③自らの行為を自分で選択して実行することができる

実存しているからこそ、鉛筆でもなくパプリカでもなくマグロでもなく犬でもなく、他ならぬ”人間として私は存在してる”と言えるのです。

あとがき

「実存」という語は、西洋哲学史においては「本質存在」と対比される「現実存在」という語であるという見解が一般的だと思われます。

「古代ギリシャではどう議論されていたのか」、「中世では?」、「サルトルとハイデガーの実存の捉え方の違いは?「など、西洋哲学史の学術研究においては実存をめぐって様々な論点があるでしょう。

今回は、ハイデガーの『存在と時間』の序論で説明された実存をベースに、僕なりの解釈も加えながら、他の存在しているものとは違った、人間独特の存在の仕方、つまり実存の内実を記述してみたつもりです。

研究者の目から見ればとてもナイーブな(素朴な)議論だったとは思いますが、個人的には、端的に人間の存在の仕方を明らかにできたのではないかと自負しています。

思考の材料

参考文献

この記事での「実存」は、この『存在と時間』での意味が最も近いです(というか、本書を参考にしました)

「サルトルが言ってる実存は伝統的な形而上学ベースの実存だから、オレの実存とは違うんだよ!」というハイデガーの意見がこちら

わかりやすく存在論について解説されている良書

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