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うぇいの哲学

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哲学みがある記事のまとめ
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#エッセイ

開いている門には入ることができない──フランツ・カフカ「法の前で」(原題:Vor dem Gesetz)──

何か思い悩んでいる人の話を聞くと、実は本人が既に解決策に気づいているということがあります。そのことを指摘すると、 「そう、わかってるんだけど」 という言葉が漏れるのです。 「当人がわかっているにもかかわらず、行為できない、言い換えれば今いるところから進むことができない」という事態は、一見「不合理」であるように思われます。 けれども実は、彼(彼女)は、法(道理)の前で立ちすくむという仕方で、論証的思考の限界の経験をしているのです。 この、「法(道理)の前での経験」を、

哲学は「答えがない問いについて考えること」なのだろうか?

哲学は「答えがない問いについて考えること」だとしばしば説明されます。けれども、このような説明の仕方に僕は違和感を抱いてしまいます。というのも、「問い」であるならば、なんらかの志向性が認められるはずだからです。ここでの志向性とは――専門的な意味ではなくて――問う際には、問いの対象(問いにおいて求められているもの)が目指されているだろうという意味です。 さらにこの事柄を考えるにあたって、いわゆる「哲学的問い」の言い回しである「そもそも〇〇とは何か」という型の問いを取り上げましょ

祈りの「効用」——自己の関心の明確化と願いを遂行しようとする意志の強化

「ご利益」ばかり気にする利己主義者の皆さまこんにちは😆 うぇいです。 本記事ではお祈りの「メリット」について考えたいと思います。というのも、最近神社に行ってお願い事したりおみくじ引いたりしたときに、そもそもなぜ人は祈るのかを疑問に思ったからです。 「祈っても何も変わらない!」と言う人もいますが、祈っている当人には何かいいことがあるから祈っているのでしょう。ほんとに何の役にも立たないもの・単なる時間の無駄だったらすぐにその習慣はなくなるはずだからです👍 本記事は、世俗的な

プロポーザル(提案)としての哲学

「わー、ずっと悩んじゃう😥」という思考の沼に陥ることが誰しもあると思います。例えば、自分の進路を決めるとき、突然不幸に襲われたとき、また漠然とした不安を抱えたときなどです。 解決の糸口が見えない難問(アポリア)に直面したとき、哲学で提出された議論を参照して何らかの立場を採用してはどうか――これが、本記事の結論です。つまり、哲学者たちの概念や議論に触れることで、一見何も手掛かりがなさそうな問題に対してうまく「付き合える」かもしれないという話です。 1. 哲学は思考の整理に「

生きている人間を「状況の産物」として眺める

遺伝か環境か――このような二分法は適切ではなく、「遺伝も環境も」という言い方が適切だろう。 「自らは自由に意思決定している」。このような信念を抱く者は多い。現行の社会制度もこの考えを下地につくられている。 けれども、個人の選択によって影響を与えられる範囲は限りなく狭い。なぜなら、当人は、物理的な身体及びその身体をとりまく環境に大きく規定されているからである。 現代の脳神経科学が示すところによれば、行動をする直前にそれをしないか否かを決定する程度の選択しか私たちはなしえな

「詩」としての哲学——理性ではなく「想像力」重視の哲学

「哲学って、難しいことをゴチャゴチャ言ってるだけじゃないの?」と思っている方もいるかもしれません。まぁ正直そういう側面もあります。「真理探究」の学(Wissenschaft)としての哲学(Philosophie)においては、かなり込み入った議論が行われているからです。 ただ、そのような自分の意思には関係なく定まった対象(例えば客観的真理)を把握しようとする哲学以外にも、哲学の活動領域は拡げられるはずだと僕は思うのです。 本記事は、冨田恭彦『詩としての哲学』を頼りに、「可能

生きること、死ぬこと、応えること

昨日、バイトの同期の一人が亡くなったことを知った。死因は、不整脈による心停止であるらしい。突然の死だ。 彼とは知り合って2年以上経つが、雑談をするようになったのはつい最近のことだ。というのも、彼は深夜で僕は早朝のシフトであり同じ時間に一緒に働くことはほとんどなく、事務的に仕事を引き継ぐことが多かったからである。 1か月ほど前になってようやく、砕けた話をするようになった――そんな矢先の出来事だ。 現代における「信仰」僕を含めて多くの現代人は、「明日以降もしばらく生き続ける

毎日頑張ろうとするとそれはそれで緩急がなくなり間延びしてしまうから、「休日」を意図的に設けたほうがいいかもしれない

何か大きな目標があるときは、単調な努力を重ねなければならないでしょう。コツコツとか、泥臭くとかそんなふうに形容される行動の積み上げです。例えば、受験勉強とか部活動の大会に向けての練習です。 でも、そうやって必要なことを淡々とこなしていくのは案外難しいものです。これには1つの大きな理由があるように思われます。それは時間(Zeit)の問題です。 目標達成のために毎日淡々と過ごすというのは、昨日と今日と明日がほとんど区別されない等質的な時間を生きることと言えるのです。人は、平均

ため息、諦め、パラドクス

お酒はあまり飲まなくなったが、一方でタバコを吸いたいと感じる瞬間が増えてきた。ただ、僕の趣味はランニングだから、ランニングの心地よさを減じてしまうようなタバコにハマるわけにもいかない。 というわけで、今は友人が喫煙者だった場合に数本もらうという状態で落ち着いている。 (以下、本記事の内容はとてもネガティブなものです。したがって、「幸せになるために人は生きている」という信念を抱いている方には読むことを勧めません。他の楽しそうな記事を読んでいただければと思います。) ふつう

生存と繁殖の先に何があるのか?(人生の意味への問い)

記事の概要人間社会は非常に複雑ですが、社会が存続するためには生殖活動が行われ、新たな個体がこの世界に参入し続けなくてはならないという事実があります。 社会や共同体でルールが定められている理由は、人々が平和に暮らすため、言い換えれば人々の「生存」と「繁殖」のためなのです。 では、人類が生存し、繁殖した先には何があるのでしょうか?...  しかしそもそも、このような問いを立てること自体が、生物学的には「バグ」であるように僕には思われるのです。というのも、「生存と生殖」を円滑

言葉が過剰な時代に、どのように言葉を紡いでいくか

1. 話し言葉と書き言葉人間の生活と言葉は不可分の関係にあるけど、従来の関係とは少し変わった付き合い方になってきているのではないかと思うんです。 いま人間と言葉は「新しい関係」にあると言える。なぜなら、書き言葉が話し言葉の影響を強く受けるようになっているからです。 インターネットの存在が大きいと思うのですが、この僕のnoteみたいに「誰かに語りかけている風」の文体の文章に多く触れるようになっていますよね。いまの僕の文体からは、教科書や論文みたいな「お硬い」文体の書き言葉と

日常を愛することはできるか? とりわけ、「明日から人生変わる」みたいな書籍や動画を見ても全く人生が変わらなかった人に向けて

本記事の要約 人生のほとんどの時間が日常生活であると考えると、「人生を変える」ためには「日常」を変えることが必要だとわかります。日常生活は、習慣的な思考や行動によって占められています。もし人生を変えたいのであれば、現在の習慣を、自分が望む別の習慣に少しずつ変えていくのがよいのではないかということを筆者は提案します。(要約終わり) 1. 「日常」というものをどのように過ごすか人生の大半の時間は、様々な雑事に追われながら慌ただしく過ごすうちに消失してしまいます。このように考え

「もう誰も信じられない!」「どんな言葉も信じられない!」と病まないための技術

「あんないい人がこんなひどいことするなんて、もう誰も信じられない😭」、こんな思いを抱く人が少なからずいるように思われます。他者を信じては裏切られ、信じては裏切られということが繰り返されると、他人を信用できなくなってしまう。このように他者に裏切られ続けた人々は、人間嫌い(ミサントローポス)になってしまっているのです。 それでは、この人間嫌いの原因とは何なのでしょうか。 このことについて、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作である『パイドン』で描かれるソクラテスおじさんに教えて