近未来のSNSのアルゴリズムを、ユングの「集合的無意識」の理論の上に構築してみたら?
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ユングとリヒャルト・ヴィルヘルムの共著『黄金の華の秘密』を読む。
その冒頭の「注釈」にユングが書いている集合的無意識の説明から始めてみよう。
私たちの身体は解剖学的に、頭がひとつ、目が顔の正面に二つ、手が二本、足が二本、といった具合に、概ね同じような基本パターンを示す(もちろん、様々な経緯によりそうなっていない方がいらっしゃることは言うまでもない。また顔の正面に目が二つついていたとしても、その大きさ、形状、他の要素との位置関係などにより多様な「差異」が生じること、さらにその差異が「美しさ」や「かっこよさ」「かわいさ」といった社会的な区別に翻訳され、その価値を固定化されてしまうことで個人の幸福や不幸が招来されることは言うまでもない。)
この身体の解剖学的構造のパターンと同じように、「魂(プシュケー)」の構造あるいは働き方にも、多くの人が共有する同じようなパターンがあるのではないか。
ユングはそれを集合的無意識と呼ぶ。
「身体」が共通の解剖学的構造を示すのと同じように、「魂(プシュケー)」にも「文化と意識形態の相違の彼方に共通の基層」がある。これを集合的無意識と名付ける。
これは間違っても「人間なら誰もが同じように考える」という意味ではない。ユングはすぐに続ける。
(集合的無意識は)「意識化されうる内容から成り立っているものではなく」、「ある種の同一の反応へと向かう潜在的な資質から成り立っている。
「反応へと向かう潜在的な資質」
意識される思考や意識的な思考とは別に、その深層でうごめき、それを下から支えている、全身の神経ネットワークと繋がった中枢神経系、環境に埋め込まれた神経のネットワークがある。そうしたものの働き方、動き方に、人類にひろく共有された傾向があるのではないか、という考えである。
集合的無意識は、人間の「脳」の構造が同一であることの心的表現である。
この「脳」を始めとする神経ネットワークの構造と働き方の共通性から、思考の、理性的な思惟の材料となる「象徴」の体系が生じているのかもしれない。集合的無意識の共通性故に、地球上の様々な場所に暮らす様々な人々、互いに一度も会話したことがないであろう部族の間でも「さまざまな神話のモチーフや象徴の間」に「類似性あるいは同一性」が見られるというのである。
世界各地に暮らす、互いに会ったもないであろう民族のあいだで同じようなモチーフの神話が伝えられていること。それについての最近の議論はこちら後藤明氏の『世界神話学入門』が参考になる。
集合的無意識+シンボル体系の規則
個別の生命体としての人の集合的無意識に、コミュニケーション・メディアを介して、言葉(≒シンボルの体系化規則)が、注ぎ込まれる。
それこそが、私達ひとりひとりが意識(表層の意識)を立ち上げるための材料である。
ことによるとテレンス・ディーコンが論じるように、言語のシステムと脳のシステムは「共進化」したものかもしれない。
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意識は虚妄だとして、その虚妄との付き合い方をトレーニングする
意識は、あれやこれやを時に理路整然と、時にたどたどしく、読んだり喋ったり書いたり、憤ったり説得されてしまったり納得したりする。
こういう意識というものが、じつは「虚妄なのではないか?」と、古来人類の知性は自身の知性に対してこの問いを問い続けてきた。
知性が知性を疑う。考えていることを疑うことを考える。
虚妄かもしれない意識の表層から、その虚妄が生まれる所、つまり「集合的無意識」と「言語」が接触するところにまで居りていき、その働きを全身全霊で冷静に体験し見抜いてやろう。そう考えたのが「東洋」(井筒俊彦)、「東方」(中沢新一)の知性である。『黄金の華の秘密』が分析する「太乙金華宗旨」もそうした東洋的東方的知性のひとつの表現である。
「禅」マニアのスティーブ・ジョブズがあと50年遅く生まれていたら
SNSのコミュニケーションがそのトラフィックの多くを占めるに至ったインターネットの時代。
文字は、マスメディアによる大量複製というメカニズムから踊りだし、個人の手元の小さなデバイスで生み出され、つながり、言葉が言葉を触発し増殖するようになっている。
そこで言葉は「安定したコードに支えられて意味の一貫性を保ったもの」という外観を剥がされつつある。安定したコード、一貫した意味、という幻想はマスメディア機械の運動、即ち同じ文字を大量生産し一方通行的に大量配布し続ける運動を高速に動かし続けることによって浮かび上がっていた、まさに幻想であったらしい。
コードは崩れ落ち、異常なコードが生まれては消える。というより、もともと予め完成済の安定したコードなどというものはなく、そこからの逸脱としての異様なコードというものもない。
あるのはただ、記号と記号を「えいや」と結びつける人間の嗜みと、誰かが行った結びつけ方を記憶し、反復してみるという人間の嗜み、ただその二つだけだったのである。
マスメディアの単一の声が、Web状の多数の声の増殖のなかでかき消されようとするこの状況は、ウォルター・J・オングが「二次的な声の文化」と呼んだ言葉のあり方である。
そしていまや、その「声」が、理路整然として首尾一貫した「理性」の「合理的な」意識の声だけではなく、他でもない無意識の声でもあることが、顕になりつつある。
言葉というものが、理路整然とした意識の表層から生まれるのではなくなり、意識の深層=無意識と外界から与えられるシンボルが出会う所で、情動とともに蠢く姿があわらになりつつある。
言葉とはもともとそもそも意識の表層「だけ」のお行儀の善いものではなく、むしろ意識の深層、身体と直結した生命過程の一部である神経ネットワークの挙動のパターンとしての「無意識」と、そこに神経系の末端から与えられる原シンボルがぶつかる場で爆発する何かだったのかもしれない。
だから人類はその爆発を制御し、共同体を現実世界に実装するためのコーディング技術としての言葉を作るために、儀礼を発達させてきたのである。
儀礼について、安藤礼二氏の『列島祝祭論』は、そういう観点から読むと面白い。
ユングの「集合的無意識」や、井筒先生の「東洋哲学」は、このSNSの「二次的な声の文化」が勃興し始めた現在において、とてつもないヒントを宿しているのである。
次世代のSNSをデザインしようという仲間たちには、ユングを読むことをおすすめしたい。「禅」に通じていたスティーブ・ジョブズ。もし生まれるのがもう50年遅ければ、このことに気づいたに違いない。
外界から与えられたシンボルが無意識の表面に接触した瞬間に、情動とともに爆発的に生じるコトバ。そういうコトバを、意識の表層に引っ張り出して、複数の人間の間で共有できる信念を作るための材料に転用し、そうして何らかの意味で調和のとれた共同体を作り上げてきた「儀礼」の技術。この深層と表層を往還する儀礼の技術こそ、来たるべきコミュニケーション・メディアのアルゴリズムに「使えそう」である。
この話。本気で「考えている」方々の、何かのヒントになれば幸いである。
今回のお話の続きにあたることを下記の記事に書いていますので、参考になさってください。
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