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不穏当な読書

読書するという行為は、本来的に不穏当なことだよ」

 そんな話で、とある後輩氏と話し込んでいた。

 後輩氏曰く。

 昔から彼が読書をしているというと、親族から「まじめね〜、えらいね〜」などと褒められることが多かったという。これが中学生くらいの頃から嫌でたまらなかった、と。
 彼にとっては読書することは「グレる」ことの表現だったというのである。

 なるほど、盗んだバイクを違法改造して爆音をキメているところに、親戚のおばちゃんがやってきて「あんた、小さい頃、アンパンパンのそいういう車で音を鳴らすの大好きだったね」などと言われるようなものだ。

 不良行為としての読書。

 それは確かに、読書することの一面を捉えている。

 ちょうどいま読んでいる井筒俊彦先生の『コスモスとアンチコスモス』の言葉を借りるなら、ノモスが支える日常性のコスモスに対して、アンチコスモスとしてのある種の概念たちの組み合わせをもってして討ち入る。そうしてまったくプライベートな、生身の中に隠れていて他人からは見ることができない隠されたコスモスを樹立したり、また自在に組み替えたりする。
 そういうアンチコスモス的な営みの材料や燃料を獲得するための狩猟採集活動が「読書すること」である。

 その読書は、例えば学校でやるような、文字に書かれたノモスの秩序やルールをまるごとアタマにインストールするような「読み方」に比べると、まったく異質な、なんとも不穏当な不良行為である。

 そんな話の流れで後輩氏曰く。「先輩を見ていると、冷静に淡々と過激な読書をこなしているようで、言葉を選ばずに言わせてもらうと、先輩は不気味です」と。

 不気味。

 一般常識的には「先輩に対して」もう少し言葉を選んだほうがよいと思う。が、不気味さ、はドイツ語に訳せば「Unheimlichkeit」。ハイデガーも哲学の概念の名として使っている言葉である。つまりこの場合、彼から私に対する「不気味」というのは褒め言葉である。

 後輩氏は「過激な読書」をすることに、背徳感というか、なんというか悪いことをしているという感じをもっているらしい。そんな彼からすると、私という人物は、平然と悪事をなす危険な人に見えるらしい。

 そして続ける。 

「先輩、あなたはたぶん、アスペルガー症候群ですよ」

 この後輩氏自身がアスペルガー症候群と診断を受けており、アスペルガー症候群には詳しい(?)という。

 言われて見れえば、昔からよく「無視した」と、他人から怒られたり泣かれたりする機会が多かった。それはこちらとしてはそもそも話しかけられた事自体に気付いていないところで、突然文句を言われるわけのわからない体験であった。

 「無視する」という行為は、話しかけられたことを知りながら、意図的に返事をしないという無礼な行為である。

 それに対して、そもそも話しかけられたことを知らない(気付いていない)状態では、意図的に返事をしないという選択はできない。つまり無視などしていないのである。

 とはいえ、この理屈はほぼ通じない(というか、この理屈で平然と文句を言うと、さらに火に油である)。

 「聞こえていない」私の不行為の外観は、「意図的に無視する人」の行為の外観と完全に一致しており、外観から推測して私の「内面」で「無視してやろう」という悪意が駆動していると、勝手に断定されるわけである。

 今風に言えばこれは行動の痕跡だけから不審者を判別する監視カメラAIのような処理のされ方である。ちょうどアフガニスタンでエアロビクスを踊っていたら、ドローンのカメラに「テロリストの訓練」だと判定されてしまい、ヘルファイアを打ち込まれる、というのと同じくらい理不尽な話だ。

 もっと憤慨してよかったのだと思う。

 だが昔は、子供の頃は、そんな風には気が回らない。

 こちらからすれば、「無視された」と突然怒り出す人の方こそ、「理屈の通らないことで怒り出す怖い人」なのであり、「すみませんすみません」と逃げることに徹していた。

 「適当に『すみません』で祓ってしまって、かえって失礼なことをしたかなぁ…」などと話していると、後輩氏は大喜びである。先輩、それがアスペルガー症候群ですよ!という具合である。

 私は医学博士号をもっていない人の病気の話は信じないので、ふんふんと頷く以上の反応ができなかったのであるが、仮にそうだとすれば、私ははじめからノモスによって書き込まれることに「失敗」しているわけである。この場合「失敗」というのは、わたしにとってはもちろん「いい意味で」である。

 ノモスの書き込みが滑り落ちてしまう私にとっては、ノモス的なコスモスの中からみれば「アンチコスモス」であることが、別種の独自のコスモスなのである。後輩氏からみればアンチコスモス的に見える私の読書が、私自身にとっては自己のコスモスを再生産していることに過ぎないということ。だから平然としていられるのだ。

 コスモスとアンチコスモスも、他の対立する二つの概念のペアと同じように関係概念である。つまり互いに相手との関係において、相手方と区別される限りでその存在が存在するように区切りだされる代物である。

 即自的にコスモス、というものがあるわけではなく、あくまでもひとつのコスモスとして、カオスやアンチコスモスと区別されるプロセスが動いている限りで構築される動的平衡のパターンなのである

 とすると、アンチコスモス的であることにこんなにも背徳感を抱いて喜んでいる後輩氏は、むしろ私よりもはるかにノモスの方に寄っているのではないか。

 そのことをやんわりと指摘すると「だからこそ、辛いんです」という。

 お互いに、お医者に診てもらったほうがいいよ、と言い合って別れた。

 別れ際の、後輩氏の不穏当に笑う目がなんとも楽しそうだったが、おそらく私もそういう目をしていたのだろう。また会おう。

おわり


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