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「あらゆるものが所詮記号である」という考え方について

 ある時、知人と話をしていると、こんなことを言い出した。

あらゆるものが記号に過ぎないんだよ

 身の回りのもの。着るもの、食べるもの、見るもの、場所や風景まで、すべて「記号」である、と。
 「記号」が「何かの代わりのもの」であるならば、記号に「すぎない」という言い方は、記号によって代理される前の「ホンモノ」の方により高い価値を認めるということだろうか。

 記号イコール「代わりのもの」は「ホンモノ」と対立する。

 その「代わりのもの」の方に「所詮」とか「すぎない」とか、そういう言葉が冠される時、つまり代わりのものをより低い位置に置く時、対するホンモノの方が、暗に高い位置に置かれることになる。

 ホンモノと代わりのものの対立、低い価値と高い価値の対立。この二つの対立が重なり合い、それぞれの対立の前者同士と後者同士が「同じ」と扱われる。という意味のしつらえである。

本物という価値は、偽物と本物の区別があってこそ

 確かに、ホンモノと代わりの記号では、ホンモノの方により価値がありそうだというのは、もっともらしい話である。

 例えば、冬の凍りついた夜空の雲から一瞬顔を出した月の美しさを、言葉で表現しようとしても、なかなかその全てを描写し尽くすことは難しそうである。今風に温度から光、周囲の音まで、高い分解能のセンサーをいろいろ駆使して、月の経験の場所をビッグデータに置き換えたとしても、そこですくい取れない何かがある、という気がする。

 なにより、月の経験は客観的な事柄だけでは済まない。「わたし」がその時その場で、その月に気づき、そして何かを感じたということ。その「私」と「月の経験の場・瞬間」との「あいだ」に生じた何かを、どのようにして”完全に”記号に置き換えて、いつでもどこでもだれでも「再生」可能なものにできようか。ひとから「ほら、この気温と湿度の組み合わせ、月が美しく見えるベストな条件ですよ!」と言われたところで、私ならあまりピンと来ない。

 と、考えると、ホンモノは記号に勝るというのは、しごくまっとうなアイディアに思えてくる。

 ところが、である。

ホンモノという価値、あるいは記号

 ホンモノがホンモノであるとはどういうことなのだろうか?

 ヒントは、ホンモノはそれを経験した「わたし」にとってのホンモノであるという点にある。「これはホンモノだ!」と感動し興奮するのは「わたし」である。

 ここで浮かんでくるのは、「わたし」が関与することでホンモノはホンモノになるのではないのか? というアイディアである。

 そこには「である」と「になる」の違いがある。

 ホンモノははじめからホンモノであり、それを経験するたくさん「わたし」たちの存在の癖や、記号や、記号への置き換え操作とは、まったく無関係にこれからもホンモノのままであり続ける、と考えたくもなるが、どうも怪しい。

 あるいは「わたし」が「ホンモノ以外」の方を先に知っているからこそ、「わたし」は「そのホンモノ以外と区別される」ホンモノに気づくことができる、といってもよいかもしれない。この「わたしがホンモノではないものではないもの、としてのホンモノとしてそれを見出すこと」こそが、ホンモノがホンモノになる瞬間なのかもしれない。

 冒頭に書いた「代わり」と「ホンモノ」の対立関係と、価値の高低の対立関係、この二つの対立関係の重ね合わせからはじまる「意味」としての「ホンモノの価値」。ホンモノは「価値あるホンモノである」という記号である

 ここでもうひとつのポイント。「代わりイコール記号」の方もまた、はじめから記号として存在していたわけではない。「これが記号です」というものがどこかに転がっていたわけではい

 記号というのは、何かと何か、区別される二つのものを「異るが同じ」事柄として置き換える操作、処理、行為から生じる。この操作こそが「意味する」ということである。異るが同じとされた二項のあいだの、どちらか一方が「意味されるもの」であり、他方が「意味するもの」である。後者の意味するものの方を記号と呼びたい。

 この置き換えの操作は、区別と置き換えの動作を繰り返すいくつものサブシステム(幾層もの生命システムから意味のシステム、言語のシステムまで)が重なり合った複雑な成り立ちをしていると理解できるものであり、その処理を実行する「主体」のようなものを区別と置き換えの処理の結果として切り分けられた何かに還元することはできない。

 たまたま、人類のある部族の多数派が意識的な意味のシステムの層で、いつでもどこでも、同じようなパターンで区別と置き換えの処理を繰り返すことで、あるコードが存在しているという信念が自立する。

 コードとは、何が何と置き換えられるべきで、何が何と置き換えられるべきではないかを定めるルールである。個々のシステムが区別し、置き換えを行うミクロな「動き」の場に先立って、そういうコードが予め存在するかのような考え方が生まれる。

意味することの中で、本物と代わりは入れ替わる

 ホンモノとその代わりのもの。これを区別することは、ホンモノという高い価値を、代わりのものという低い価値と対立する限りで区切りだすことである。

 代わりがあってこその本物、代わりと区別される限りでの本物、である。

 「本物」をそれを切り出す意味作用に先立って予め存在するなにかと考えて、それを切実に求めるようとすることは、それ自体が一つの意味作用である。その意味作用は、ホンモノに対する代わり、ときに「ニセモノ」という代わりの中でもひときわ低い価値、許されざる価値を付与された項を大量に区切り出し、作り出すことになる。

 あらゆるものは記号に過ぎない、といった知人は、何かを「記号だということにして」、それを無価値なものの地位に置こうとしていたのかもしれない。そうしてそれを、もう真面目に関わり合う必要もないもの、ということにして、やり過ごす。
 記号の位置に置かれることで、その切実で逃れがたい経験の場所を脱色されてしまうもの。そのひとつは紛れもなく「わたし」というものだろう

 「わたし」もまた、その「代わり」としての記号と区別され、ホンモノとその代理物との区別と重ね合わされることで、そのホンモノ性を獲得していく。

 この重ね合わせの向きを逆にすることで、「わたし」の方を代理物、記号の側に置くこともできる。そうして「わたし」に、とるに足りない「まがい物」という低い価値を与えることができる。
 「わたし」は、それが他者から付与されるものの束であり、自分自身で選び取ったものではない、といった具合に。わたしなど単なる他者たちの気儘な「意味付け=レッテル貼り」の結果が寄り集まった泥のようなもので、放っておけば流れて無くなるものであろう、と。

 一方、そこから転じて、「わたし」と区別されるわたし以外の何かの方に、より高い価値が与えられる。

 意味作用の動き方という意味では、何と何を区別し、それを何と何の対立と重ね合わせようが構わない、とも言える

 ただし難しいのは、その重ね合わせの向きを、固定し続けすぎると、生存上の大問題につながってしまうこともまたあるということである。

 ある意味付けに囚えられ、「結局、○○は所詮▽▽だ」と言いたくなるとき、そういうときは私自身にもある。ただこの置き換えを絶対的なものだと思いこんでは行けない。それこそただの意味作用なのであるから。

 ○○と▽▽が、それぞれ何と区別されて切り出されているのか?

 そしてその対立関係どうしが、どの向きで重ねられているのか?

 重ね合わせの向きを逆にしてみたり、あるいは最初の切り分けのやり方を変えてみることで、意味にゆらぎと遊びの余地を保ち続けること。

 目下の所、コレができることこそが、人類に普遍的な最初で最後の叡智なのではないか、という着想が頭から離れない。

 あるいは真逆で、対立関係の重ね方を固定して、物象化してしまう「愚かさ」こそ、人類に世界を作り変える力をもたらした宝だということもできる。

以上の元ネタは

 この話は全て、レヴィ=ストロースの意味を巡る理論に導かれている。

 南北アメリカを中心とした世界各地の神話のお話であり、子供でも楽しめる。嘘ではない。

 我が家の子供たちが小学生になった暁には、6年間の読書感想文はこれを「与える」つもりである。

 言葉が「所詮」すべて他人から贈与されるものだとすれば、「わたし」として「生き直す」に値する言葉を”おかしな親”から贈与”されようとした”という経験は、もし仮にそのことを対象化できるような別の意味の体系をもまた借りてくることができるようになるならば、感涙にむせばざるを得ないものとなるであろう。

 それでもやはり、ただの迷惑であろうか?

 少なくとも私は、そうした言葉の断片を贈与されうる場所にたどり着くまでに神経を疲労させ、危うく意識を失いかけた。意味の世界を生産する技術を贈与され始めることに、早いということはないのかもしれない、とも思う。

おわり


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