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人の営みが織りなす連続的な変化‐読書メモ:『弥生時代の歴史』(1)

 前回のnote読書メモ『縄文時代の歴史』につづいて藤尾慎一郎著『弥生時代の歴史』も読了である。「縄文」の方を読み終わるも続きが気になり夜も眠れず、早々に手にとった次第である。

縄文と弥生を区別する

 『縄文時代の歴史』と『弥生時代の歴史』は、まとめて続けて読みたくなる。なぜなら「縄文」の方の最後が、縄文の話の流れで、いつの間にか弥生の話に入ったと思ったら、突然最終ページを迎えてしまうからである。
 これは決して、本の編集の問題ではない。そうではなくて、そもそも縄文時代なるもの、弥生時代なるものの「境目」がはっきりしていないからである。縄文時代の話をしていると、いつの間にか弥生になっているし、弥生の話をしようと思うと、そのバックグラウンドは全く縄文である。

縄文時代弥生時代「境目」をどう決めるか

 典型的な縄文時代のイメージと、典型的な弥生時代のイメージ。それははっきりと区別できるものだが、ある日突然、前者から後者へ切り替わったわけではない。時間的にも空間的にも、移行の「幅」があった。

 空間的に、九州北部玄界灘沿岸に最初の水田稲作を行う人々が現れたころ、北海道、東北北部はもちろん、東海でも、北陸でも、西日本でも、九州中部南部でも、さらには水田のすぐ近く、玄界灘沿岸地方から少し入った山の中には、ひきつづきたくさんの縄文人の方々が、在来の暮らし方を続けていたのである。

 弥生の生業形態は、少しづつ、長い時間をかけて、九州北部から始まって、東へ、南へ、北へと、広まっていった。時間的に「今日までが縄文で、明日からが弥生です」といえるような日付はない。何か特定のイベントが開催された日付をもって、二つの時代が区切られるわけではない。

 弥生時代は、最初は小さな「点」から始まって、少しづつ点と点をつなぐネットワークを広げ、時間をかけて少しづつ少しづつ面的に広がっていったのである。
 この拡大も、すぐに日本列島全域を均質に覆い尽くしたわけではない。弥生時代を経て更に後の時代まで、日本列島には水田稲作を中心とする文化圏と、水田をもたず、交易を重視した北と南それぞれの文化圏へと、3つの文化が並存することになる。水田稲作の面的な拡大が北海道を含む日本列島を北から南まで覆い尽くし終わるのは、ごく最近、最終的には近代のことである。

 日本列島全体は均一な空間ではない。縄文的な暮らし方と弥生的な暮らし方は、隣り合って、パッチワーク状に、様々なグラデーションで境界を成し、いくつもの多様な土着の暮らし方を形作った。

弥生の始まり‐紀元前10世紀の九州北部

 遺跡に残ったモノにせよ、そのモノを使って行われた仕事にせよ、その仕事に価値を置いた社会にせよ、ミクロに見れば、ひとりひとりの「ひと」の存在と切り離すことはできない。
 生まれた環境で獲得できる限りの技術や知識で、頼れる仲間の中で、どうにかうまい具合に生き延びなければならない。そういう個々人の止むに止まれぬ行いの積み重ねが、文化を、文物を、道を、知識を、そして人間関係のネットワークを織りなし、次の世代に残したのである。

 さて、『弥生時代の歴史』には、はじめて知る話も満載だった。そのひとつが、弥生時代が始まる直前の朝鮮半島の状況である。

 列島で、最初に水田稲作が始まった場所は九州北部、玄界灘沿岸。時は紀元前10世紀から前9世紀中頃の100年ほど。ちょうど中国では有名な「牧野の戦い」の後、西周が商(殷)に取って代わった頃である。

 著者の藤尾氏は、この頃、日本はもちろん中国東北部や朝鮮半島はまだ「国家の兆しさえ見えない」段階であったことに注意を促す。もちろん、国家がないからといって、人がいないわけではないし、農耕を大規模に行えないわけでもない。当時、朝鮮半島の南部に、すでに水田稲作を行う社会が存在していたのである。

弥生時代直前 朝鮮半島南部の歴史

 この朝鮮半島南部の歴史を知っておくことが、弥生の始まりを知る手がかりになる。

 この地域では、すでに6000年前からアワやキビの畑作が行われており、紀元前4000年頃にはアワの畑作、漁撈、狩猟採取を組み合わせた生活が成立していたという。

 そして紀元前15世紀〜紀元前13世紀、中国北部から青銅器の祭器を携えた畑作民の南下があった。当時の中国で青銅器を持っているとなれば、これはもうの人々である。後世に伝承された「箕子朝鮮」の話はどうやらこの文化のことを言っているらしい。これ以降、朝鮮半島南部でも畑の大規模化が進み、作物もアワキビに加えて、コメや麦、豆なども作られるようになる。

 この文化で使われた土器が、後の玄界灘の弥生人達の土器にも通じる「突帯文土器」である。穀物の穂苅用の石包丁や、木を伐採するための磨製石斧など、初期の弥生人が持っていた農具に直接つながる先行形態が、この頃の朝鮮半島南部で揃ったのである。
 また、青銅器の剣「遼寧式銅剣」を副葬した支石墓という、支配者の埋葬の様式。これは九州北部の初期の弥生人のリーダーがこだわった様式であるが、この様式もこの頃の朝鮮半島南部に出現した。

朝鮮半島南部で水田稲作が始まる

 さて、ここまでのところで、実はまだ朝鮮半島南部では、水田稲作は始まっていない。朝鮮半島南部の青銅器文化は畑作を基盤としていたのである

 朝鮮半島南部で水田稲作が始まったのは、紀元前11世紀ごろであるという

 水田稲作そのものは、7000年ほど前に長江下流域で始まっているが、これが朝鮮半島南部に伝わったのが紀元前11世紀ごろ。

 長江下流から朝鮮半島南部へ、どういう経緯で稲作が伝わったのかは現在の発掘記録からは、よくわからないという。

 いずれにしても朝鮮半島南部で元々大規模な畑作を行っていた人々が、水田稲作も受け入れたようだ。

 そして、水田稲作の開始と時を同じくして後の九州北部の弥生の集落にも見られるような環壕集落が営まれるようになった。

 このような具合で、後に九州北部の弥生文化の指標となるような文化の組み合わせ一式が、朝鮮半島南部に揃ったのである。

 弥生文化には南方の稲作文化の系譜のみならず、北方の畑作文化の影響もあると言われてきた。これはそもそも弥生文化の源流である朝鮮半島南部で、もともと稲作より前に畑作農耕が盛んであり、そこに水田稲作が加わっているかだ、というわけだ。

 ここまで、かなりざっくりと要約してしまったので、詳しい話は、『弥生時代の歴史』を読んでいただきたい

水田稲作集落の住民が、日本列島移住する理由?

 この朝鮮半島南部の水田稲作農耕民が、日本列島へ移動、移住をしはじめた。これが九州北部の弥生時代の始まりである。水田の作り方、集落の作り方から、その道具、さらに埋葬についての理念まで、まるごと一式携えて、移動してきたのである。

 この移動、移住が始まった理由として、藤尾氏は農耕社会の階級格差があったのではないかとの仮説を提示する。階級格差から生じる矛盾から逃れようと、移住を選ぶ人たちが出てくる、と。これが最初の渡来人の姿である

 従来、日本列島の水田稲作が紀元前4世紀ごろに始まると考えられていたのであるが、ちょうどそれが中国の戦国時代と重なっていた。そこから中国の戦国時代の戦乱が、民族大移動を引き起こし、日本列島へ難民が流れこんだ、との説が優勢であった。

 しかし、最新の分析によると、列島の水田稲作の開始は紀元前10世紀から前9世紀中頃であると明らかになった。そうなると戦乱からの避難説は成り立たないという。

 では戦乱以外で、集団的な移住が起きる理由は無いのだろうか?

 そこで藤尾氏が上げるのが、階級構造を含む集団生活が生み出すストレスである。集団で環壕集落に暮らし、支配者の号令一下、協力して水田を営む(営まされる)、それが毎年毎年繰り返される、という日常から生じる社会的なストレス。なんともブラック企業的な感じで気が滅入る。

 藤尾氏は指摘する。ちょうど朝鮮半島南部と九州北部の間には、もともと縄文時代7000年ほど前から「回遊魚を追って移動生活を送っていた海洋漁撈民」たちが移動生活を送っていた、と。

 漁撈民たちにとって、海峡は生活の場であった。彼らは日常的に朝鮮半島南部と九州北部の間を行ったり来たりしていたようで、双方で同じ土器が見つかる。朝鮮半島南部の稲作民は、昔から海岸にやってきている漁撈民たちが支配者の居ない南の自由な土地=日本列島の話をしているのを聞いただろう。「米あげるから乗せて」と海洋漁撈民たちの船に同乗し、移住してみたくもなるだろう。

 朝鮮半島南部の農耕民にとって、日本列島はその存在すら知らない未知の謎の島ではなかったし、海峡渡海といっても航海の伝統をもった漁撈民に便乗するのであれば、決死の覚悟というほどのことでもない。 

在来民と渡来人との棲み分け

 実際に海を渡って九州まで来てみる。

 そうするとうまい具合に、海外近くの河川の下流域には在来の縄文人の人々がほとんど暮らしていないのである。

 在来の縄文人たちは、縄文海進以来、河川の中流域より上で暮らすようになっていた。彼ら後期の縄文人のアワやキビ、豆の畑作は、平坦な水田を必要とせず、山の中でもできる。

 九州北部に最初の水田稲作集落が開かれた当初、河川下流域には水田を営む集落が、河川上流域には在来の縄文系の畑作を営む集落が、分かれて分布していた。うまい具合に「棲み分け」ができたのである(稲作民の数が少ないうちは)。この棲み分け現象は、九州北部に限らず、西日本各地や関東でも、水田稲作の開始当初によく見られると藤尾氏は指摘する。

 こうして、弥生と縄文のパッチワークと、グラデーションをなす境界領域が各地に広がっていったというわけである。

つづく

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