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分別から相即相入へ ー吉本隆明『最後の親鸞』p120より

しばらく前から中沢新一氏の『レンマ学』を読んでいる。

『レンマ学』では、ロゴス的知性に対して、それを支える土台としてのレンマ的知性ということを考える。私たちの言葉や、言葉による意識的な思考はロゴス的な知性の働きである。それに対するレンマ的知性とはロゴス的知性の土台ともいうべきもので、ロゴス的知性はレンマ的知性の「変異体」である。

このレンマ的知性は、ロゴス的知性とは大きく異なった動き方をする。

ロゴス的知性の動き方が区別をすること、対立関係を樹立することに向かうのに対して、レンマ的知性は区別され対立関係に置かれた両極相即相入させ、異なるが同じ、二つにして一つ、という関係を開き続ける。

ロゴス的知性の限界をレンマ的知性によって超えること。

区別から、相即相入へ

区別の所与性の上に立脚する思考から、相即相入を思考することへ、私たちのものの考え方はもとより、科学的な理論までをも拡張していく必要があるというのが『レンマ学』の試みが目指すところである。

吉本隆明氏の『最後の親鸞』

この『レンマ学』の中沢氏が、『レンマ学』の執筆とほぼ時期を同じくして吉本隆明氏の『最後の親鸞』ちくま学芸文庫版に解説を寄せられている。

この解説について書こうと思ったのだけれども、何よりもまず吉本氏の『最後の親鸞』の本編がおもしろい。

例えば次のような一節がある。

「<有念、無念>といい、<一念、多念>といい、これが対立概念として出てくるのは<自力>放棄しきれない方便の世界に身をおくからである。」(吉本隆明『最後の親鸞』p.120)

対立概念、ある二つの概念の対立があらわれ出てくるのは、方便の世界にある自力を放棄しない身からである。

方便は意識が編み出した言葉であり、要するにロゴス的知性が区切り出した区別の組み方の一つである。

そういう言葉が、区別が、何らかの目的意識や計画を思いついて止まない生身の身体の一部としてのの脳ー中枢神経系から繰り出される。

対立概念は区別することの直接の産物であり、ロゴス的知性の働きによって創り出されるものである

善と悪でも、生と死でも、自然と文明でも、何と何でも良いのだけれど、こういう「区別をする」のは、私たち人間の意識、ロゴス的な意識、その言葉の癖のようなものである。

この「区別をする」と言うことが、意図的意識的な行為であり、目的意識を持った計らいごとであり、目的に達するための手段を講じることである。

こういった計らいごとを「自力」であるとして、これを放棄し、「他力」に入ることを求めたのが親鸞ということになる。

自力と他力、ロゴスとレンマ

ロゴス的知性が区切り出す区別を飛び越えてしまうのが、親鸞の「他力」である。

「しかしこれらの対立概念は、<他力>絶対の世界では根こそぎ超出される。」(吉本隆明『最後の親鸞』p.120)

対立概念、互いに区別され対立関係に置かれた両極を前提として、その上でどちらが何で何がどちらか、などと考えるのではない。

対立を、区別を、根こそぎ、超出する

どう超出されるか。概念を対立させたからには、概念の組み替えによってはこの対立を超えることはできない。」(吉本隆明『最後の親鸞』p.120)

何かAとBが対立しているとして、これをCとDの対立に置き換えましょうとか、BをCと交換してみましょうとか、そういう組み替えをすることは、対立を超えることではない

対立を超出するとは、どういうことか?

「ただひとつ<有念、無念>や<一念、多念>の概念が出てくる世界を、そっくり絶対<他力>の世界に吸収させることによって、いわばこれらの概念はそのままべつの角度から照射される。」(吉本隆明『最後の親鸞』p.120)

区別が区切り出されることそのもの、つまりロゴス的知性の働きを、丸ごと「<他力>の世界に吸収させる」ことによって、区別は超出されるというのである。

<自力>がロゴス的知性の働きだとすれば、それを飲み込む<他力>とは、ロゴス的知性をその変異体として生み出す「レンマ的知性」ということになるだろうか。

いや、<他力>はロゴス的知性とレンマ的知性を区別し、そのハイブリッドを生み出すところの基体である「純粋レンマ的知性」ということになるだろうか。ロゴスに対立するレンマではなく、この対立以前の純粋レンマである。

区別に囚われること、自己と他者、健康と病、美と醜、生と死、善と悪、正しいことと間違ったこと嘘偽りと真実、そうした「区別」された対立関係の両極のどちらか一方へと、あらゆる経験の対象を分別しようとすることが、私たちの「煩悩」を生み出し、対立関係の他方ではない一方への執着を生み出す。

ところが、こういう区別は全て、人間が、人間のロゴス的知性がそのように区切り出す処理を行ったことで、その産物として創り出されたものである。

その区別が行われる手前では、これらの区別はなく、対立関係もまだない

それこそ微細なエネルギーの流れに着目すれば、生命と物質、生と死の区別さえない、できないということになる。

生よりも死の方が本来的だということではない。そういう言い方は、生と死を区別を前提として、どちらがより重要かを考えようとしている点で甚だロゴス的だし、区別と対立を「自力」で組み替えようとしていることにほからならない。

あるいは区別をしてはならない、ということでもない。区別以前を思い知れと言われても、それを言っていたり言われたりするのが人間という言語と共進化した脳を持った生命である以上その口ぶりは最後まで区別を免れない。”区別”と”区別以前”の区別をいうこと自体が、区別をしていることに他ならない。しかし、その逃れ難いこと自体は残念なことでもなければ、悲しむべきことでもない。

言葉で考えざるを得ない人は、何をどうしても、区別をすることをやめることはできない。

できることといえば、区別をしながら、区別をしているなあ、と自分のロゴスの機微を自分で眺めつつ、『「Aは非Aであり非AはAである」と言ってみる事もできると言ってみる』こと当たりなのかもしれない。

この辺りのことはこちらのnoteをご参考にどうぞ。

そのように行ってみたり言ってみなかったりするというあたりが、あくまでもドロドロと区別を行い続けながらも、自分が行った分別に必要以上に囚われ流ことなく、そこから超出できないまでも超出しうるとすれば…と言ってみることを辞めないという生き方のエッセンスなのであろう。

何と言っても、言葉をしゃべる意識には、区別以前が純粋な区別以前としては決して現れない。

ただし、それは、互いに区別され対立する両極に置かれたもの同士が、実は「相即相入」しているのだよね、といえてしまうというロゴスとレンマのハイブリッドのロジックに変換されて姿を現すことがある。

関連note

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