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神話的思考は日本の神話にも―渾沌と三者

神話的思考とは

神話は、ある事柄の起源、由来を説明しようとする。
その説明の仕方は、次のような手順になる。

1)まず「区別」が語られる。
 対立関係にある二つの事柄、項目が、ペアで登場する。

2)区別された二項の対立関係が危機に陥る。
 二項が近づきすぎて「ひとつ」になったり、区別不能になってしまう。あるいは二項が離れすぎてしまい、その間に結びつき、関係が無くなってしまう。これはどちらも対立関係が成立しなくなること、項が対立関係から外れてしまうことである

3)神話的思考は、この対立関係を崩壊の危機から救い出そうとする。
 二項を再び適切な距離に、近づきすぎず遠ざかり過ぎない範囲に位置づけるのである。ここに付かず離れず、接近させつつ分離する、分離しつつ接近させる、という関係を作り出す操作を行う媒介者が登場する。媒介者は最初の二項のどちらとも自在にコミュニケーションをする。そうして離れすぎた二項を再び結びつけ、くっつきすぎた二項を再び切り分けたりする。

4)再建された対立関係の一項として、何らかの存在の起源が説明される
 神話は何かの起源や由来を説明するのであるが、ここまでの話がまさにその説明の仕方になる。ある事柄は、ある対立関係にある二項のうちの一方の項として存在し、存在するようになる。神話的思考はこのように考えるのである。対立関係が保たれ、しかるべきペアになる相手と付かず離れずの関係に置かれていることが、ある存在がそれとして存在することの説明になる、と考えるのである。

このあたりの話を詳しく知りたい方には、何をおいてもレヴィ=ストロースの『神話論理』をおすすめしたいところであるが、とても読んでいられないというご意見ももっともである。

そこで神話的思考にふれる入門書として、中沢新一氏の『カイエ・ソバージュ1 人類最古の哲学』をおすすめしたい。

危機的な関係にある二項と両義的媒介項とがうごきまわり、対立関係を再建し、ある項の存在を、対立関係にある一方の項として確定し、位置づけ、安定させる。そういう神話の実例にふれることができる。

ところで、なぜ「情報学」を一応の専門とする筆者(これを書いているわたし)が、これほど神話的思考ということに興味をもつのかというと、それは神話的思考が、人類にとっての「意味」というコトの発生に深く関わっているように思えてならないからである。

日本の神話にみる神話的思考

さて、神話的思考について話しをすると「日本の神話はどうなんですか?」という質問をもらうことがよくある。

日本の神話。日本書紀や古事記に記された神話群である。

日本の神話もまた、「日本」に存在する様々なものの由来を、そもそも日本そのものの起源を説明しようとする。

それは過去に起こった出来事を、こういうことがありまして…と単純に記録するものではなくて、なぜこの国が存在するのか、神々が存在するのかをゼロから説明しようとする古来の思考、意識と無意識の境界に浮かび上がる意味の網の目のエッセンスである。

日本書紀でも古事記でも、様々な事柄の起源、由来の説明の手順として、神話的思考が至ることろで展開される。すなわち、対立関係にある二つの事柄がくっつきすぎたり離れ過ぎたりする事件をしるし、この接近や乖離が両義的な媒介者の介入により適切な距離におさまるように調停されたことを物語るのである。

そうであるから、神々の事績として記されたことの多くが神々の結婚に関わる話なのである。異なる系譜の男女の神が結婚し、子どもが生まれる。その子どもがまた別の系譜に連なる神の子と結婚し、子どもをなす。

ここで記紀の神話が神話らしいのは、結婚を夫婦の間の、男女の間の関係として記述していることにも見られる。

近世の「系図」となると、どうも「男子の直系」ばかりを強調するフシがあるように思えるのが、考えてみれば、単独の男性が、単独の男性を出産することはまずない。

神話的な系譜は、家長たる男子の名前をだんご3兄弟状に並べていくのではなくて、夫婦という対立関係、すなわち、二つの氏族の対立関係が、婚姻によって、その子の誕生によって、付かず離れず結び付けられたことを伝えている。異なる二つの氏族にとって、そのあいだに生まれた子どもは自分たちでありながら他者、他者でありながら自分たちと同じ、という両義的な媒介者になる。

ニワトリのタマゴのような渾沌

例えば日本書紀の冒頭、「神代」の「上」からいきなり神話的思考が走り出す。

例えば、冒頭の一節にこのようにある。

天地未剖 陰陽不分 渾沌如鶏子

天地はいまだ分離せず、陰陽を分けることもできない、ちょうどニワトリのタマゴの中身のような具合の「渾沌」であった。

天と地、陰と陽は、あらゆる区別の最初の一撃になるような区別である。

その区別が「未剖」「不分」だというのである。わざわざ天地、陰陽と、区別を述べたうえで、それを分かれていない、区別できていない、タマゴのような渾沌であった、とするのである。

ついでにいえば未と不、剖と分の対立もおもしろい。

ところでタマゴのどのあたりが渾沌なのか?とおもわれるかもしれない。

渾沌というと、なにかごちゃごちゃして収拾がつかなくなっているというニュアンスを感じるかもしれないが、この場合の意味合いはそれとは違う。

この日本書紀書かれている「渾沌」は老荘思想でいう渾沌である。

老荘思想の渾沌については井筒俊彦氏が『意識の形而上学』で次のように書かれている。

「莊子は彼一流のミュトス的形象に映して「渾沌」の神のイメージを描く。この場合、「渾沌」とは、普通の意味でのカオス、すなわち種々様々なものがゴチャゴチャに混在している状態、ではなくて、まだ一物も存在していない非現象、未現象の、つまり絶対無分節の、「無物」空間を意味する。」(『意識の形而上学』)


絶対無分節、ここから最初の区別がスタートする。

渾沌が、澄んだ部分と、濁った部分に分かれるのである。

「澄んだもの」と「濁ったもの」
「軽いもの」と「重いもの」

が区切られる。

タマゴは未だ鶏へと生成しては居ないが、鶏のあらゆる器官が互いに区別されながらそこから生成する、鶏の存在に関わるあらゆる区別の起源、区別が生じる以前の、区別へと向かう傾向、動き、可能性、潜在性が充満したかたまりである。

タマゴは、生き物と生き物ではないものとの区別のどちらにも収まらない。生と死の区別のどちらにも収まらない存在である。確かに、タマゴはまだ動物ではない。歩いたりもしないし、鳴いたりもしない。しかし死んでいるわけではない。生きているのでもなく、死んでいるのでもない。

ここでタマゴは対立する二つの項のどちらでもありどちらでもなく、対立関係にあるべき二項を結びつけつつ極限で分離する働きをする、両義的な媒介者である。

タマゴにおいて、生死を含むあらゆる区別と区別される二項の関係が始まるのである。「天」と「地」の区別のはじまり、「陰」と「陽」の区別のはじまりを、わざわざタマゴに例えるというのは、極めて適切な神話的思考なのである。

日本書紀の記述は、この渾沌から、澄んだものと濁ったものの区別と対立関係が生じる様子を描いていく。一度対立関係が定まると、そこに重ね合わされる形でいくつもの区別と対立関係が増殖していくのである。

「天」と「地」の区別と対立、「動きやすさ」と「動きにくさ」つまり、「動」と「静」の区別に重ねられる。そして続けて「天」と「地」の区別が、「先」と「後」、時間的な前後の区別にも重ねられる。

ここまでで、原初の渾沌から「空間」と「時間」の区別が生まれたことになる。

三者関係:二項対立+媒介項

そしてこの時空間に、国常立命を筆頭に、三柱の神が現れる。

おもしろいのは、このなんとも言えない区別が曖昧なところから生まれる三柱の神の名が、ひとつに確定されていないことである。日本書紀には「一書曰〜」という形で、この最初の三柱の神の名について、いくつかの異なる名が連ねられる。

神様の名前が曖昧だなんて、それでよいのだろうか?
と現代の感覚から思われるかもしれないが、むしろ曖昧な方が良いのである。

いちばん重要なことは、この神々が柱であることなのである。

三というのは、二項対立関係と、その二項対立関係を結びつけつつ完全に一体化してしまわないように適度に分離する、第三項=両義的媒介項からなる三者関係を設定しているのである。

重要なのは個々の神様の、それ自身の、他とは無関係にそれ自体において決まる「名前」ではない。個々の神様が個々の神様であるのは、それが固有名をもっているからではなく、三者からなる関係、三項関係の中である一つの項のポジションを占めるからである。この互いに適切な距離で結びついた三項関係を示すことこそが神話的思考の重要な課題なのである。

そしてその三柱の神から、さらなる様々な区別が、対立関係が、生じていくのである。

おもしろいのは、ここで続々と登場する神様たちのうちにも「名前しかわからない」神々がけっこういらっしゃるということである。

一般に神話というと、英雄的な神々が偉業を成し遂げるパターンを想像されるかもしれない。しかし、記紀の神々についての記述には、ほとんどその名前しか記録されていない場合が多々ある。それぞれの神が即自的に(他と関係なくそれ自体として)どういう特徴をもち、どういう属性にあり、どういう偉業をなされたのかは、ほとんど何も書かれていない。

しかし、これこそが神話的思考の真骨頂なのである

個々の神が、それ自体として、その固有名のもとに、独立単立した主体として何を成し遂げたかということは、神話的思考の関心が向くところではない。

神話的思考にとってなによりも大切なことは、この神々は、「互いに区別されていること」と、区別されながらも「組み合わせになっていること」である。そうして付かず離れずの対立関係を、いくつもいくつも生み出し続けているということが、一番大切なのである。


つづく

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