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連想の自在さを止めないことがAI時代の「学び」である -郝景芳著「人工知能の時代にいかに学ぶか」より

現代中国を代表する作家の一人である郝景芳氏による『人之彼岸』の日本語訳が早川書房から刊行されている。この本には6つの短編と2つのエッセイが収められている。

冒頭のエッセイについては、前にこちらのnoteで紹介している。

今回は二番目のエッセイ「人工知能の時代にいかに学か」を読んでみる。

自分自身、小さな子供を育てている身からすると気になるところである。

「人間の言語には類比と連想が満ちている」(p.86)

このエッセイを読み解く鍵になると思うのは、86ページに書かれている「人間の言語には類比と連想が満ちている」という一節である。

類比は文学的レトリックであるだけではなく、私たちの思考様式であり、知識分野でも同じく有用である。私たちは以前「安っぽい類比」とよく言って批判し、類比は決して真の知識ではなく、大脳の中のランダムなつながりにすぎないと感じていた。しかし実際のところ、私たちは類比と連想を大いに頼りとして知識を成長させている。」(p.86)

類比、つまり比喩(アナロジー)の力は、カオス的な流れでしかない世界の実相を分節し区別しつつ、区別された物事の間に「異なりながら、同じ」という関係を繋いでいくことである。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、ホモ・サピエンスと他のサピエンスを分つ最大の能力として挙げている「虚構の力」や、中沢新一氏が『レンマ学』で人類の知性の根源的なアルゴリズムとして挙げている「喩の力」、いずれもこの類比(アナロジー)の力と重なる

類比はランダムな思いつき、真の思考とは言えないものなどではなく、逆に思考することのエッセンスである。郝景芳氏は「類比深層にある構造の発見」でもあるとも書く。

一見すると無関係に見える物事の間に「つながり」を「発見」するのは中沢新一氏のレンマ学でいえば「レンマ的知性」の働きである。喩の力、異なるもの同士を異なったまま同じと置くことが、意味を生成する。即ち、意味分節体系を自在に組み替えられるようにするのである。

AI時代の学び

AIの時代に、人間が、特に人間の子供が「学ぶ」べきことの核心は、この「類比と連想」を自在に活動させる訓練をすることにあるという。

連想の力の素養は特別に鍛えるまでもなく、人間の脳が生まれながらに備えているものである。おそらく乳幼児の言語獲得のプロセスの重要な部分もこの喩の力によって動かされている。郝景芳氏は「人間の学習で重要なのは、記号体系についての基本的理解である」と書く(p.99)。言語をその代表とする抽象的な記号で「現実の感覚を表現する」のである互いに異なる何かと何かの間の「同じさ」を連想する力は、言葉や数字あるいは音楽などの記号体系を自在に組み合わせる力とも同じである。記号はある何かを、他の何かによって象徴することである。

その表現の可能性、特に、記号と経験の組み合わせの多様な可能性を試すことこそが、「学び」の根幹になる。


こうした連想の力、喩の力を「育てる」上で重要なことは、何かを特別に教え込んだり付け加えたりすることというよりも、元々動いているものを止めないようにすることにある

特に気をつけなければいけないのは、生まれ持った喩の力の散策を止めないこと、差異を区切りつつ同じさを作り出す自在な意味分節体系の運動を止めないようにすることである。

「「ただ一つの正確さ」を過度に強調し、規範に則った行動を過度に評価することは、誤った探究を過度に批判することは、子供の想像力を抑圧する最大の障害となる。」(p.103)

子供は至る所に「同じさ」を発見しては

「同じ!」 「○○みたい!」

と、とても面白そうにそれを報告する。

ところが大人は何気なく、その楽しそうな報告に対して「それは○○じゃない」「それはちがうよ」などと言ってしまうことがある。

しかし、子どもが見せる「○○みたい!」を発見する能力は、一面ではロゴス的分別機能が未成熟であることによるのだけれど、他方でそれは記号体系そのものを創造し作り替えていく瑞々しい知性の発露そのものなのである。

分節の仕方と連想のパターンを一定の枠にはめることで、常識的な理性としてのロゴスが固まる。しかしこの「大人」の一度固まってしまった分節体系が、それによってうまく分節できない中間的で曖昧で両義的で複雑な事柄に直面した時に引き起こされる数々の困難には壮絶なものがある。大人にとっては、硬直化してしまった分節体系を軟化させる「学び」こそが必要になる。が、その学びはまったく容易ではない。

自由な連想が許されるスペースを確保する

その点、子供は自由である。

カレー屋さんに行って、こだわりのじっくり煮込んだカレーの皿を前に「みて、みたい!」などと大声で言い出しかねない危うさが「おもしろい」のである。

もちろんこれを「おもしろい」というと、怒り出す大人も多いだろう。

「違います」

「そういうことを言ってはいけません」

大人はついつい汲々としていう。もちろんいうまでもなく、カレー屋さんでカレーを侮辱するようなことは言わないほうがいい。第一美味しくいただこうと思っているのに飯が不味くなるではないか。

しかし、それはあくまでも「カレー屋の店内で食べながら言わないほうがいい」であって、意識が覚醒しているあいだじゅう「絶対にその言葉を口にしてはいけない」ということではない。ここを混同しないことが重要だ。

人間は思うことを言うことを分けることができる。

自由に思っても、言わないこともできる。

喩の力を自在に遊ばせることができる領域を、意識の中に常に確保しておくのだ。そうして組み合わせを自在にするひらめき、思いつき、直感、「連想」を大切にすることを覚えるのである。

創造性とは、連想が自在であること

何かから他の何かを連想する力、異なる事柄の間に「同じさ」を感じとる力、それこそが意味を新たに生成すること、即ち意味分節体系を柔軟に組み替える力の根源になる。この「連想」という形で自在に動き出す接続ネットワークの増殖こそが、人類の「創造性」に関わる。

創造的であるとは「あえて知識を疑問視し、再編成し、組み合わせ、拡張したり、あえて既存の知識に挑戦し、再構築したり、知識を柔軟に活用したりする」ことでもある(p.12)。

日常のありとあらゆる経験を、同時に複数のさまざまな記号に置き換えて、現実の経験と第一の記号と第二、第三、さらにその先の記号を自在に繋いでいくことを許すこと。この自在に連想し経験といくつもの記号を繋いでいくことが、新たな記号体系を生成するきっかけになる。

そこに新たな記号の組み合わせのパターンとしての新たな意味が生まれる可能性が開く。

上の引用にある「ただ一つの正確さ」を求めてしまうと、つまり物事の分節体系と、置き換え可能・等置可能な物事の組み合わせパターンを単一のもの、固まったもの、絶対的に決まっており変えることができないもの、などと考えてしまうと、人間本来の「喩の力」は抑圧されてしまって、それこそAIのようなパターン識別しかできないアタマになってしまう。しかもその処理速度はAIに比べて驚異的に遅いという残念なパターン識別マシンに、である。

言うまでもなく、この話は「他人様のお店で変なことを言う子供にしましょう」という話ではない。

連想の力そのものを強く肯定しつつ、その使い所を、変なことを言っても許してくれる親密な人間たちの間で学んでいく必要がある、と言う話である。

子どもと、親密な大人との「愛着」は、郝景芳がAIによる機械学習と人間による学びの違いを論じる際のキーワードにもなっている。

AIは喩の力を持てない?

今のところAIは異なったものの間の「同じさ」を直感するという類比の力、喩の力を持たない

そんなことを書くと、”いや、AIはさまざまに異なった猫の写真の中から「同じさ」を発見し、抽象的な猫の概念を獲得しているではないか”と思われるかもしれないが、喩の力における「同じさ」とはそういうことではない

猫Aと猫Bが似ているということは猫と猫以外を区別する分節機能があれば分かることで、そこに「喩の力」が働く必要はない例えばネズミは、詩を吟じたりはしないが(『フレデリック』という絵本はあるが)、しかし様々な毛の色や模様をした様々な猫から、同じように逃げることができる。

今日の訓練されたAIは、大量のデータ(0と1の配列)の中に、学習して獲得した0と1の配列パターンと”似たようなもの”があるかどうか、高速で探す仕組みである。

AIは大量の猫の写真における0と1の並び方の傾向と、大量の猫ではない写真における0と1の並び方の傾向の違いを、距離の遠さを計算している。猫の写真c1と猫の写真c2と、犬の写真d1とでは、それぞれ0と1の配列は異なる。しかし、c1とc2で同じ要素が共通して0だったり1だったりする確率は、c1とd1とで同じ要素が共通して0か1である確率よりも高い。

AIはある一つの要素が1である確率が「高いか」「低いか」、その確率の差から異なるか同じかを区別する。ここでは確かに区別することは行われているが、しかし喩の力はない。

喩の力が発見する同じさは、全く異なる知識の領域をつなぐものである。猫の画像を見て「気ままである」とか「冷静な眼差しの中に熱いものがある」とかいうことが喩の力であり、意味の世界である。

郝景芳氏は「人工知能ができないこと」として「世界観」「創造力」をあげる。

世界観とは常識のアップグレード版」であると同時に「世界に対する全体的認識」であり(p.80)、世界観こそが「専門分野を跨いだイノベーション能力を私たちに与えてくれる」という(p.81)。また創造力とは「意味を持った新しいものを生み出す能力」であるという(p.81)。

人工知能にはない私たち人間・ホモサピエンスの知性について郝景芳氏は情報を統合する能力、抽象化能力を挙げているが、「意味」と「常識」はどちらも情報を抽象的メタレベルで統合することである。メタレベルでの結合とは、まさに喩の力。異なるものを異なったまま類比でつなぐ力である。

常識AIをつくる?

今日のAI(人工知能)はいわゆる常識を持たない。

例えばある人の顔を画像認識して分類した結果、その人の目が「蛇」の目に"似ている"という計算結果になったすると、AIは「あなたは蛇のような目をしていますね」と言いかねない。

さて、蛇が好きな人は多いので、蛇のような目ですねと言われて大喜びされる可能性もある。

逆に蛇が嫌いな人も多いので、蛇のような目ですねなどと言われると怒り出すかもしれない。

しかしいずれにしても人間と人間とのコミュニケーションにおいては、「あなたの目」=「蛇の目」という言葉と言葉の結合は、書き手話し手聞き手読み手において意味を発生させてしまう。しかも、言う人と聞くひとの人間と人間の関係や状況などに応じて発生する意味が真逆に変わるのである。

仮に「この人の目は蛇のようだなあ」と思ったとしても、それを口に出すか出さないか、仮に口に出すとしてもどういう言い方をするか、相手との過去の関係や、相手の好み、現在の状況、これまでの会話の文脈などなど、本当にさまざまな背景情報を考慮して、どういうべきか、黙っているべきか、決めることだろう。これらの総合的な背景知識がここでいう「常識」ということになる


例えば、あなたがデパートの財布売り場のスタッフをやっているとする。

財布売り場にやってきた蛇のような目をした女性客が蛇皮の長財布を手にとっているとする。この場合

お客様は、お目のあたりなどが蛇によく似ていらっしゃいますので、この蛇皮のお財布はたいへんお似合いです」

と言うべきか。

それとも

…常識的にいまこの場で"あなた蛇みたいな目をしていますね”などとは言わないほうがいいだろう

と心の中で思うか。

両方のパターンを試してみたい気もするが「常識的には」何も言わずにニコニコしていたほうがクビになるリスクを最小化できるのではないか。

私たち人間は常識の中で生きている。

日常生活で発生する問題には、複数の知識領域にわたる総合的な常識がいつも関係してくる[…]。私たちは世界の全体モデルを構築し、人を大量の背景知識を組み合わせて作られた常識という舞台に上げ、その行動を理解することができる。」(p.80)

ポイントは「複数の知識領域にわたる」というところである。

私たち人間は、実にさまざまな情報を組み合わせて、自他の行うこと、いうことの「意味」を理解しようと頑張っている

ところが現在のAIはこの「常識」と「意味」を考慮するようにはできていない。現在のAIは、囲碁なら囲碁用AI、画像診断なら画像診断用AI、手書き文字認識なら手書き文字分類用のAI、という具合に課題となるパターン識別&分類に応じてそれぞれ特化した学習をすることで成り立っている。

手書き文字分類用に訓練されたAIに医療診断用の画像を見せても、そこに手書き文字に似たパターンを見つけ出すことはできるかもしれないが、病の兆候を検出することはできない。

手書き文字でも、病気の診断のための画像でも、猫の写真でも、ナンバープレートの写真でも、防犯カメラが捉えた街を歩く人々の顔でも、今日のAIにとってはいずれも0と1が延々と並んだものである。

AIは0と1の配列パターンの生起確率を計算したりするとき「私は人間の顔を見ている」「私は手書きの文字を読んでいる」などと「意識する」ことはない。AIは自分が何を見ているか「知らない」のである。

だから、ある人の目の画像が蛇の目の画像とマッチ度99%だということは分かるが、それをいまここで「言ってしまう」ことがどういう意味をもつかは気にもしないのである。

人間の目と蛇の目が「似ている」とAIが判定した場合、それが異なるものを置き換える「比喩」をやっているように見えてしまうが、これは喩の力ではなく、その前段階の「区別」である

より研ぎ澄まされた比喩は、似ているものを似ているのというのではなく、まったく似ていないものを似ているというのである。

あるいは常識的な発言と非常識な発言を分類するAIは作ろうと思えば作ることができるだろう。常識的な人間が「これは常識的」「これは非常識」とタグ付けしたテキスト情報を教師データとして大量に用意して機械学習を行えば非常識な発言と常識的な発言を自動的に分類するというSNS事業者が高く買ってくれそうなAIを作れる。

ただそうした常識AIができたとしても、それはあくまでも0と1の配列パターンを数えているだけである。人間のようにさまざまな背景情報を考慮して「いまここでこれをいうのは非常識だからやめておこう」とやっているわけではない。ヘタをするこの常識AIは「蛇みたい」という文字列は非常識だから全てNGにしましょう、などとやりかねない。

しかしこれが人間なら、例えばごく親しい蛇マニアの友人が、長年たくさんの蛇たちと一緒に暮らしているとして、その彼に対して「最近顔まで、目まで、蛇に似てきましたねぇ!」というのが褒め言葉になる場合がありえるということ、喜ばれる可能性もありえるということが「分かる」。

いつ、どこで、誰が誰にいうかで、言葉の意味は揺れる。

人間にはAIが人間に見える

もちろん文脈や背景を「意識していない」「知らない」からといってAIは何も困っていないし、意識したいとも、知りたいとも思わないだろう。「意識する」とか「知らない」とか人間の知性の動き方を言い表すための言葉は、AIが行っている計算処理とは無関係である。

そうであるにも関わらず、意識しているかしていないかが気になってしまうのは、従来人間でなければできなかったような仕事をAIがテキパキ処理するのを傍目に見ていると、まるでAIが「仕事のできる"人間"」に見えてしまう私たち人間の側の性(さが)なのかもしれない

生物学的な意味では人間ではないものが人間のように見える、ということ、あるいは生身の人間でなくても「人格」を持っているように感じられるということ。

生物学的には明らかに人間である人を「自分たちと"同じ"人間ではない」としてモノのように扱えてしまうのも人間だし、同じ人間がペットの動物やコンピュータアルゴリズムを「(自分の人間の)子供のように」可愛がるということもある。

人間であるか人間でないか、ということは意味分節の問題である。

人間とAIを区別するのは良いとして、その区別を、他の何と何の区別に重ね合わせて思考するかが重要である。異なったものを異なったまま同じとする喩の力、異なりながら同じにするという両義的で矛盾した思考を豊かに増殖させつつ、そこから新たな意味の束の間の安定性の萌芽を育てることができるかどうかが、この「人工知能の時代にいかに学ぶか」では人間とAIの別れ目になる。

終わりに

区別し異なるとした上で一つにつないでいく喩の力、意味分節=創造の力は、人類の思考の華であると同時に、差別と排除の暴力の源泉でもあり、しかし同時にまた差別と排除を解きほぐす知恵の源泉でもある。

何れにしても、区別し、そしてつなぐ「連想」の力に自在なしなやかさを(区別と連想の複数性と両義性を)保ち続けるスペースを、時間的にも空間的にも一人一人の未来の子供達が持てるように隙間を開け続けることが大切なのである。

人間は区別することをやめられないし、喩の力で自在に区別されたもの同士をつないでしまうこともやめられない。しかしどちらも決してやめる必要はない。やめておいたほうが良いのは区別と喩による接続を「固定」すること、固着させることである。

関連note


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