精読とは何をすることか? - 意味分節の《理論と実践》
本アカウントで運営しているnoteサークル「井筒俊彦著『意識の形而上学』精読塾」。
そこで展開されている「精読」の実践について、唯一にして孤高の参加者である愚唱@井ノ上裕之さんがご自身のアカウントで紹介を書いてくださいました(改めて、ありがとうございます)。
はじめに、井ノ上さんは次のように書いてくださっています。
参加者は今のところ、私ひとりだけ。本音を先に言わせていただくと、他の方には参加していただきたくない。笑。way_findingさんとの対話は濃厚すぎて、いつも2時間はあっという間に経過してしまいます。いつもいつも丁々発止のやりとりから脱線してしまって、本題の『意識の形而上学』読書がなかなか前へ進まないのですが、だからこそ面白い。
他の方に参加していただきたくない。
これは主催者冥利に尽きる褒め言葉です。
もちろん、本サークルの月額会費は2,200円に設定していますので、仮に1000人の方に会員になっていただければ月間2,200,000円ということでネットビジネス的にもイケている感じ、それこそ主催者としては大成功しているようにハタからは見えるようになるのでしょうけれども、大切なことはそこではないのです。
このサークルのポイントは「精読」にあります。
精読とはどういうことか、私が考えている「精読」とは、次のようなことです。
精読とは「私」の変容に寄り添う実践である
私の、変容に、寄り添う。
どういうことでしょうか。
ここでいう「私」とはある一つの言語的意味分節体系です。
ここでいう言語的意味分節体系とは、肩こりのようなものです。
分節というのはちょうど竹の節(フシ)をイメージしてもらうと良いです。「分けながらつなぐ」ということであり、これは分けたり、つないだりする「動き」であります。分節はモノではなくコト、スタティックではなくダイナミックなのです。
この分節というダイナミックなコトが、日々同じようなものとして再生産され続けている私たちの身体においては、「肩こり」のように固まった様相を呈し、あたかもスタティックなモノのような外観を演じることになるわけです。「体系」という言葉でこのモノ化した、凝り固まった姿をイメージしていただけると良いと思います。
*
この凝りを、再びダイナミックに動けるようにする。
そのためには、まさに癒着した組織を引き剥がすことが必要になります。
もちろん、引き剥がすといっても、組織をバラバラに破壊してしまうような乱暴なことはいけません。肩こりが辛いからといって、日本刀でバッサリ介錯してもらってはダメです。
リンパ液や血液がドロドロに凝ってしまったものを、程よく流れるようにする。固まっているのもダメだけれども水風船を割るように飛び流れてもダメ。生きるということは動きつつ止まり、止まりつつ動く、流れつつ貯え、貯えつつ流す、この微妙な中道的バランスを取ることが大切です。
* *
井ノ上さんは上記の記事で、次のように書いてくださっています。
単に「テキストを読む」というだけではなく、"自分の言葉"に変換して伝える。この変換は高度な特殊技能です。ですが、"自分の言葉"が相手にも"自分の言葉"の創発・ヒラメキを促すという現象自体は、誰にでもできる人間に普遍的な技能。技能というより、単に現象と言ったほうがいいくらいのもの。
ある一人の「私α」を作り上げている"自分の言葉α"が、他の人の「私β」を作り上げている"自分の言葉β"の「創発・ヒラメキ」を触発すること。
このプロセスは「私」が複雑なテクニックや技巧を駆使して取り計らいコントロールするものではなく、「私」の計らいごととなどとは無関係に、私とは別に動きてしてしまう「現象」というべき事態だということが重要です。
井ノ上さんはさらに次のように続けて下さいます。
つまり、「井筒を読む」ということは、創発・ヒラメキの連続になるということ。これが丁々発止にならないわけがなく、面白くないわけがありません。もっともその人の言葉の自由度、「言葉にどれほど縛られていないか」が試されますが。
井筒を読むということが、"自分の言葉"がβ1,β2,β3,β4,…,βxと創発変容進化させ続けるということ。これがまさに「おもしろい」と同時に「試される」経験になるのです。
試される。
言葉に「縛られて」いるか、いないかが試される。
これについて敷衍してみましょう。
分節体系は自然に発生し変容する
「精読する」ということは、第一に「私」というある一つの言語的意味分節体系を、私のそれとは別の、異なる、他者の言語的意味分節体系と接続・連結・結節・重合させることであります。
互いに異なるふたつの言語的意味分節体系が、二つでありながら一つになること。ここで何が起きるかと言えば、言うなれば”読まれる対象”である本の意味分節体系が触媒のような作用をして、”読む私”の意味分節体系を少しだけ動かすのです。
どういうことでしょうか。
言語的意味分節体系というのは、細かく細かく見れば、次のような四つの項の関係を最小構成単位としています。
○ ー ○
| × |
○ ー ○
この四項からなる最小構成単位がいくつもいくつも連なって、「私」という意味分節体系が織りなされていきます。
井ノ上さんが"自分の言葉"と書いてくださっているものを、私が意味分節体系と言い換えているものは、まさに下記のような具合に顕現させることができます。
この図で表したものは、繰り返しになりますが、止まったモノではなく、動いているコト、ただし反復的なパターンを描きならが動いている"生命体"のようなものです。
安藤礼二氏は南方熊楠が探求した「曼荼羅」と「粘菌」と「深層意識」という異なる三つのテーマの向こうに、共通した一つのイメージ、ビジョンのようなものがあると論じておられますが、それがまさに上の図のようなものでありました。
*
この言語的意味分節体系の一つ一つの「項(○)」には、あれこれさまざまな言葉が配置されています。
そしてある一つの項(○)は、必ず他の項(○)とペアに対になっています。
うまいーまずい
はやいーおそい
明るいー暗い
長いー短い
役に立つー役に立たない
良いー悪い
…
そしてそして、この○と○の対(○-○)が、他の○と○の対(○-○)と結合することで、最小の意味分節システムが出来上がります。
例えば
時間をかけないー時間をかける
| |
良い ー 悪い
という具合です。ここに「時間をかけないことは良いこと」「時間をかけることは悪いこと」という「意味」が分節されるようになります。
もちろん、この二つの○-○を結合する向きは逆にしても良いのです。
時間をかけないー時間をかける
| |
悪い ー 良い
こうすると今度は「時間をかけないのが悪いこと」になり、「時間をかけることが良いこと」になります。
例えば職場などで、喫煙休憩と称して2時間くらい行方不明になると、それはそれはもう「時間をかけることは悪いこと」という「意味」でもって批難されるわけです。
しかし、医者などで、口に入れたものは三十回くらい噛んでから飲み込んでくださいなどという場合、「時間をかける」ことはとても良いことになります。
ちなみに、ここでは「勤勉ー怠惰」、「健康ー不健康」といった別の二項関係が先に「良いー悪い」の二項関係と結びついていて、この4項の関係に引っ張られて「時間をかけるー時間をかけない」の向きがクルクルと回転するのです。
言語的意味分節体系の一つ一つの「項(○)」には、あれこれさまざまな言葉が配置されていますが、どこにどの言葉が入るかは、あらかじめ決められているものではなく、いつも常に、変容の可能性に開かれているのです。
* *
意味分節体系は”凝っている”とはいうものの、常に動きつつある可能性に開かれています。
そして「同じ一人の私」の中であっても、日々少しづつその意味分節体系は変化しているのです。そしてそして「私」においてすら意味分節体系には少しづつ差異が生じてくる暗いですから、「私」と「他人」ともなれば、その両者の意味分節体系において、どこにどの言葉が配列されているかは大きく異なる可能性があります。
母国語が異なる人と会話をする場合、互いの言語的意味分節体系への言葉の配列のされ方の違いにハッとすることは度々あるのではないでしょうか。
またいわゆる「文化資本」や「毒親」などというものも、子が親等からどのような言語的意味分節体系(言葉と言葉の置き換え関係とその配列の仕方)を伝承されたり強要されたりしたのかという観点からも問うことができます。幼い頃から、「お前は〇〇だ」と、存在することの価値を貶めるような言葉ばかりを投げつけられてしまった人は「私は○○だから」と、自分自身の「意味」を言い換える先の言葉"○○"を大変に劣悪なものに限定されてしまっていることがあります。
変容に寄り添う
私たちは生きていく上で、「私」ということを言い換える先の言葉の配列を、"自分の言葉"を、私という言語的意味分節体系を、更新し、変容させ、あるいは一旦破壊的に討ち滅ぼしてから新たな姿で産み直すことが必要になる場合があるのです。
そして「精読する」ということは、そうした言語的意味分節体系の更新、変容、スクラップアンドビルド、破壊と再生を、触発することであります。注意して欲しいのは、「精読」は破壊と再生を意識的技巧的に計画し制御する意識的営みではなく、いわば自然に勝手に壊れたり変化したりするがままにしておくことである、という点です。
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私の言語的意味分節体系αを、それとは異なる言語的意味分節体系βと重ね合わせ、結びつける。すなわちαの中にある一つの言葉a1と、βの中にある一つの言葉b1を、仮に異なるが同じものという関係に置くことが、ここでいう結びつけるということです。このa1とb1が「異なるが同じ」関係に置かれることによって、a1に紐づいた数々の言葉たちと、b1に紐づいた数々の言葉たちが、これまたゾロゾロと互いに絡まり結び合うようになるのです。
こうして私の言語的意味分節体系αの中に、新たにa1=b1を通路として他なる体系βの分節体系がグニャグニャと動きながら入り込んでくるわけです。
この現象を面白がることができるか、それとも恐るべき試練・できることなら避けたい試練とするかは、それは個々人次第でしょう。
何より、このグニャグニャと動くプロセスは、あらかじめ方向づけたり制御したりすることが極めて困難なのです。発生と変容を荒ぶる動きをあらかじめ安全圏内に留めておくことができないという点で、誰もが気軽に覗き込める場所ではないのです。
ここに自在に出入りするためには、いつでも瞬時に意識の深層から表層に帰ってこれるよう、柔らかいものから硬いものへ、それぞれ可動域が異なる複数の分節体系を多段に重ね合わせた梯子のようなものを精神の中に組んでおく必要があるのですが、この話はまた別の機会に。
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井ノ上さんの記事に対して、私は次のようにコメントを書かせていただきました。
読むということはすなわち変換可能性の創発に寄り添うことである。これぞ井筒氏が書かれている「アラヤ織の育成」ということなのかなと思うところです。
この可能性の創発は、私たち個々人が気付かぬうちに与えられてしまった意味分節の呪縛的「カルマ」の中から始動する。それは傷口に食い込んで癒着したものを引き剥がすような痛みを伴う動きであり、しかし同時に「癒し」の始まりでもある、などと言うこともできるかもしれません?!
このコメントを受けて、さらに井ノ上さんは次の記事を書いて下さいました。
私がコメントに書いた「寄り添う」という言葉に、井ノ上さんがさらに言葉を結びつけてくださっています。
"寄り添う"という言葉が加えられていることが素晴らしい。創発というものの性質を見事に言い表しておられます。
創発というものは意図して起こすことができません。必ず起きるものですが、いつ起きるかはわからない。まるで地震のようですが、それもそのはずで自然現象だからです。創発は自然現象。私たちの裡なる精神の中で生起する自然現象なんです。
ここでいう創発、すなわち意味分節体系の変容は、外から意図的に制御できるものではありません。
意味分節体系の創造的進化を、面白がることができるか、それとも恐るべき試練・できることなら避けたい試練とするかは個々人次第と書いたのもこのためです。
複数の意味分節体系が重なり合い、結びついたところで、新たにどのような体系が創発するかは、やってみるまで分からないのです。
* * *
「やってみるまでわからない」なんて、無責任なことを言うと思われるかも知れません。しかしこれこそ人間というこれまたひとつの「自然」的生命に向き合う上で、もっとも責任ある態度です。
意味分節体系を強制的に組み替える
あらかじめ計画し、着地点を決めて、誘導する。そういうことはあらかじめ設定されて固まった分節体系の中で初めて可能になることです。今ここで問われているのは、そういう固まった分節システムを動かすということなのです。
さまざまな詐欺のように、ある人をあらかじめ精密正確に設計されお膳立てされた特殊な分節体系の中に引っ張り込んで、財布の紐を緩めるか否かの判断を左右してしまうことは多々ありますが、それはここでいう意味分節体系の創造的進化に寄り添うということとは全く別のことです。
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文化人類学の諸研究が明らかにしているように、レヴィ=ストロースが高い価値を与えた意味での「野生」の社会では、しばしば通過儀礼(イニシエーション)という子供が大人になるための特別な儀式がセットされていました。
子供としての自我を破壊し、大人としての自己を新たに構築する通過儀礼の中には、しばしば極度の身体的緊張状態の中で部族に伝承された神話を聞かされるものがあるようです。神話というのはそれ自体が日常の凝り固まった意味分節体系の四項関係を、固着した姿から動的な発生の相へと送り返す営みでありますが、まさに通過儀礼の只中で、子供時代の意味分節体系を一旦クラッシュさせる代わりに、新たな意味分節体系が贈与され、大人としてまた社会のなかに生まれ直してくるわけです。
しかし今日の世界では、そうした言語的意味分節体系の書き換えを引き起こす通過儀礼のようなものはすっかり社会の表舞台から消されてしまい、代わりに「受験」や「就活」のようなものがその地位に滑り込んでいるという、人類史的に見れば大変に風変わりな事態になっているわけです。
今日の私たちは、分節体系が崩壊した深層の瓦礫の中から、また新たに体系が発生し立ち上がるのを眺め、そしてその体系を足掛かりにまた日常表層の社会に帰ってくる経験を積む機会を与えられていない。そう言えるかも知れません。
そんな時代だからこそ「精読」なのです。
おわりに
人間は、自分がそうと気づく以前から、意味分節する生命体であるということ。そしてその分節のやり方のパターンは、「私は〇〇だ」と言えるようになる以前に、他者から贈与され書き込まれ、また日々「私」とは無関係に、外から訪れる言葉たちの連鎖に押し流されて形作られているということ。
そこから始めて、私が「私」を一つの与えられた言語的意味分節体系として再発見するためには、他なる言語的意味分節体系との衝撃的な邂逅が不可欠であること。
本は、多くの本もまた、最初は「ほらご覧なさい、あなたが知っている言葉がたくさん並んでいますよ」という顔をして訪れる。そこで「私」は、本の言葉たちの配列を作り出しているジェネレータたる言語的意味分節システムと「私」の言語的意味分節システムとが、全く同じものなのではないかという淡い期待を引き起こされる。
しかし稀にごく一部の本は、その徹底した論理や、あるいは詩の言葉は、「私」の言語的意味分節システムとは全く別の他なる意味分節システムがそこで動いている姿を、突如として私の意識の表層にも知覚させるのである。
*
この意識の表層の日常的に安定した意味分節体系を一応保ちつつ、同時に意識の深層で分節体系が創造的に進化していくプロセスをも、淡々と「眺める」明晰な意識を持つこと。これが「精読する」という営みなのです。
大切なことなので、繰り返し書いておきます。
精読するとは、言語的意味分節システムが無作為に自ずから発生し変容していく自然生命的なプロセスを、意識の明晰さを保ったまま眺める時間を送ること。
それが他なる言語的意味分節体系の触媒作用を通じて「私」という言語的意味分節体系の凝りを解きほぐし、少しだけ振れ幅を広げてくれるのです。
*
というわけで、noteサークル「井筒俊彦著『意識の形而上学』精読塾」へのご参加はこちらからどうぞ↓
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