未完成で動きつつある一様でないそれ -読書メモ『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』
いま読んでいる猪口純氏の『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』が面白い。
例えば65ページのこちらの記述である。
「ジェイムズは端的に真、すなわちそこで新たに生じた観念はそこにまさに実在するということによって、主知主義や合理主義の前提(認識主体と対象のいずれかの側に完成された一様の秩序が存在するという考え)を排するにとどまらず、<共通現実>の措定という、プラグマティストによっても尚保持されていた大前提をも覆そうとした。主体各々の主観的世界が、それ自体は動かないひとつの間主観的空間に位置を持つという仮定すら、ジェイムズは容認していない。」(猪口純氏『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』p.64)
実在するということは、新たに生じること、何かが発生するということにはじまるのであって、発生する動きを飛び越えて「完成された一様の秩序」のようなものがあると考えない方がいい、ということである。
認識主体であれ、認識の対象であれ、何かそういうものをそれ自体としてあらかじめ決定済みのものとして、もうそれ以上動いたり発生したり変容したりすることのないものとして「完成」されているとは考えない方がいい。
事実(という観念)も、主体(という観念)も、間主観性(という観念)も、いずれも何か「それ自体は動かない」「完成された一様な秩序」として要求したり前提したり措定したりできるものではない。
動かないことと、動くこと。
完成されていることと、未完成であること。
この後者の方、動きつつある未完成の発生の動きと、特にその多数性の方にフォーカスする。
猪口氏はさらに『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』の後半で、このジェイムズの哲学とシステム論とを比較しながら読み解いて行く。
システム論では、システムということをシステムと環境とを区別し続ける動きの反復として捉える訳だけれども、このシステムの発生ということがジェイムズの「多」の発生と重なる。
◇
この区別する(分ける)動きの反復が、秩序あるものとして観察できるシステムを発生させるという考えは、安藤礼二氏が『熊楠 生命と霊性』で論じて居られるように、南方熊楠や鈴木大拙の粘菌や曼荼羅、霊性の思想とも重なる。
重なるというか、ウイリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の思想と、熊楠や大拙が生涯をかけて取り組んだ無からの発生(無分節からの分化)にフォーカスする思想とは、同じ思想の潮流にある。
このあたりの話は安藤礼二氏の『熊楠 生命と霊性』に詳しいので、ぜひこちらをご参照ください。
猪口純氏は『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』の63ページで、ジェイムズによる次の一節を引用する。
「この世界の構成要素は、それぞれ一実在なのであるから、縄のたくさんな繊維のように、非連続的、交叉的であって、ただ縦の方向でしか結合していないように思われる。この方向を辿ると、それらは多である。発生学者でさえ、彼の研究対象の発達を辿る場合には、一つ一つの器官の歴史を代る代る調べねばならないのである。してみると、絶対的な美的統合などというものは、これまた全くの抽象的理想でしかない。」
発生に、器官の歴史。
ジェイムズがこれを出してくるところはとにかくおもしろい。
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井筒俊彦氏は言語ということを、まさにこのような「無分節からの分化」の動きから発生する「意味分節システム」として捉え、それを集合的な言語アラヤ織とよぶ。
プラグマティズムとシステム論、そして集合的言語アラヤ織。
私たちが思考することを可能にする言語=意味分節システムの発生ということを考える上で、いくつもの補助線が交差していくようである。
あるいはそこに鶴見俊輔氏の「プラグマティズム」におけるコトバをめぐる思想も絡んでいくのではないだろうか?
この辺りはじっくり読んでいきます。
つづく
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