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目を閉じた方がよく見える(夢のコミュニケーション論)

私が、見たり聞いたり触れたりできる「事」の世界。その世界というのは「私」という生命体が自分の身体の内部に作り出した「像」なのだ。

像を作り出す。写像。現代の複製技術の精細さに幻惑されてはならない。像はあくまでも創られたものだ。

ありのまま、そのもの、本物、事実と寸分違わず。 

もし本当にそうなのであれば、そのようなことをなぜ唱え続けなければならないのか。

世界の「事」たちは、「私」のなかで「事」として現象している。それを写像と呼ぶなら読んでもよいが、ただしそこにあるのは複製技術というよりも、僅かな手がかりを材料にほとんどゼロから作り出す手仕事、日常大工仕事、ブリコラージュである。

識別システム

写像の不純正の美しさは、この場合の「私」の方にも当てはまる。

事をその内部に現象させている「私」という生命体

それを、いわゆる理路整然と言葉を紡ぐ「意識」のことだと思わないほうがよい

もちろん意識もうっすらと目覚めている。しかし決め手は「無意識」あるいは身体表面の感覚器官や、免疫系や、共生細菌、ことによってはウイルスまで含めたざわめきの方である。それらまで含めた超多次元で階層化された識別システムのことを「私」と書いたのである。

それは日常的な意味では「私」であるところか、ほぼ他者である。

しかし他者の蝟集体こそが、主観的な意識の明晰な識別作用にすべての情報を供給しているのであって、それが「他」ではないという点で、他に対立する相手の方であるがゆえに、それを「私」と呼ばざるを得ないのである。

つまりここで「私」というのは「他ではない」ということに尽きる。

さて識別システムというのは即ち、「区別する」処理を一定のパターンで反復する仕組みということである

なにを区別するかといえば、それは自分と他者、内部と外部を区別するのである。

あるのではなくつくる

注意してほしいのは、自分と他者の区別というのは、最初からそれ自体として世界の内部に存在するものではなくて、あくまでも「区別する」という生命体側の操作によって生じる副産物だということである。

もともと区別されているものを、そのものの特長に従って仕分けするというのではない。

もともと区別されていないものを、何らかのパターンで切り分けるから、そこにある生命体にとっての区別が始まり、確固として存在するかのように見えるようになるのである。

「事」の世界は人を含むそれぞれの生命体と無関係に、おのずからそのように存在するということはない。

視神経を観る

この区別が生じる瞬間をありありと観察できる方法がある。しかも非常に簡単である。道具も何もいらない。

他の人の視神経を脳に繋がれた経験がないので断言はできないが、少なくとも私はこうだという話として受け取って頂きたい。

その方法とは即ち、「ギュッと目を閉じる」である。

そしてギュッと閉じたまま、10秒でも、60秒でも、その状態を保持してみるのである。顔の筋肉がツルというのであれば、閉じた瞼に軽く手をおいてもいい。

さて、ここからが「意識」の出番である。

目をぎゅっと閉じた状態で、何か見えないだろうか?

何も見えない?

真っ暗闇が広がるだけ?

確かに暗い。しかし「何もない」といえるだろうか?

意識を集中して、見えるものを探す。

そうすると、うまい表現かどうか分からないのであるが、真っ黒な背景の中に無数の白色の光の粒や染みのざわめきが「見える」

外部環境の光という入力がない状態で、神経系の光を捉えようとする動きが発し続ける「外界の光はこういうパターンになっているかも」というシミュレーションの結果。これが外部にものとしては存在しないはずの「光の粒の動きや流れとして」見えている。

視覚の神経系は、闇と光を区別しようとする。

この区別しようとする働き自体は、外界からの光のインプットがあってもなくても、動き続けているらしい。

ここにあるのは闇と光を識別する、発火したりしなかったりする多数の神経細胞たちのざわめきだ。

さらに意識を集中すると、視神経が見せる闇と光のパターンがゾワゾワと動く様が、心臓の鼓動に応じているとわかる。

区別するのは、神経細胞たちである。区別するといってもなにか予め「外界に」転がっているあれこれ互いに区別済のものをひとつひとつ拾い上げるということではない。

外界だというふうに見えているものも、外界に属するあれこれ互いに区別されているかにみえるものたちも、全ては生命システムとして「わたし」の身体が、そのように「区別した」ということにつきる。

それでも「わたし」たちは身体に閉じ込められてはいないし、神経に閉じ込められてもいない。

区別するバイオ機械、置き換えるバイオ機械としての「わたし」たちの存在自体が、全宇宙を成り立たせているあるひとつの傾向あるいは運動パターンが巻き起こす巨大な渦のなかの、小さな小さな無数の渦である。多数に分かれた部分でありながら、即、ひとつの全体である。

言葉も区別する

その区別する働きと、置き換える働きの、頂点あるいはひとつの側面が、言葉なのである。

言葉は、コンテクストにみなぎる微細な情報にはじめから重畳されているし、自らを再生産し続けようとする傾向にある、あれこれの存在は、始めから激しく流出した後である。

だからこそ、言葉にとっては「字義的意味に従うこと」よりも「転義できてしまうこと」の方こそが、本来的なのである。

ある言葉Aと言葉B。

AでありながらBであり、AではなくBであり、AでありBではなく、AでもなくBでもなく、という関係に同時に置く。

互いに区別される二者が、異なりながらも、同じ。同じでありながらも、異なる。

これこそが、意味すると称される事態が展開している時にはいつでも、そこで生じている驚嘆すべき惨事にほかならない。

(1)その置き換えはわかる、聴いたことがある、読んだことがある、他の誰かがそのように置き換えているのに立ち会ったことがある。

(2)その置き換えは分からない。そんな置き換え、聴いたことも観たこともない。誰もそのようには置き換えていない。

この(1)と(2)の違いはどこにあるのだろうか。

区別し、置き換える、というプロセスは、(1)と(2)どちらでも共通である。

違うのはなにか、同じ区別の仕方と置き換えの仕方の反復の頻度と、共振の頻度である。

「反復」の方は道具と技術の問題で、いかようにも。

しかし「区別」と「置き換え」の方は、逃れ難く私達の身体に住み着いている。

いや、というよりも、私達自身が区別と置き換えを特定のパターンで反復するように出来上がっているバイオ技術なのであった。

区別を区切る技術/置き換える技術

そのアルゴリズムを知り尽くし、道具を研ぎ澄まし、生命それ自体と同じような自ら進化し変容する機構として構想し、設計し、生産し、量産し、普及させること。

神話、マス・メディア、SNS、文字、そして声と唄、メディオロジー

その技術は、はるか太古に完成済であるとも言えるし、まったくの未完成であるとも言える。

その未完成性あるいは反完成性、それでいて完成を志向する傾向。その両極に引き裂かれてあることこそが、目を閉じた夢の時間における創造の歓喜なのである。


おわり

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