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totally

Totally okay, totally. 手紙はこれきりだった。どう訳そうか、と思案する。全部大丈夫、全部。まったくかまわない、かまわないから。これっきり。もう次の手紙はなくて(そんな予感はほとんど確信に近くて、totally!)、わたしはずっとこの言葉を抱えていくのだ、と思った。

実際のところ、それを抱えていられる時間はあまりなくて、おっとそういえば、と気付いたときにもう一度抱えなおす程度の、そんなお粗末な覚悟の断片に過ぎないものだった。そのたびにtotallyは非難がましい目をしてわたしを見上げる。どこにもいけないのならなおさら、忘れないでよ、とtotallyは言う。

不思議なことに、わたしとtotallyは同じ車に乗って、同じ時空間を過ごしながら目的地へ向かっているはずなのに、totallyはそう思わないようだった。まったく、これだから困る、と言葉はいつも続く。全体が疲れた角膜のように濁った夜のなかで、車のキセノンランプが照らし出す中央分離帯と、等間隔にオレンジがひかる道路照明灯がわたしたちの孤独さを守っていた。わたしは思う、ああなんて信用は容易いものかと。このキセノンライトが照らし出せるのはわずか50m先ほどにすぎないのに、わたしはそれを信じて(同時に注意深く疑い)、従順にみちなりのカーブやら直進やら合流に従っているのだ。そのもうすこし先に、わたしのかたちをそっくり模った生命体がいたとして、わたしはきっと気付かず撥ねていくだろう、せいせいと、すがすがしく。衝撃のあとにでさえ。前のめりになり、サスペンションがうかび、やや空回りするタイヤ、重力、警告灯、瞳孔、なおもあいかわらず、クラクション、音響……。totallyがふいに、よそみしないでよ、と声を荒げる。あなたのせいでほとんど終わりじゃない、という。

わたしも同様に、totallyと同様に、ほとんど、あまつさえ、ありもしない、けれどまったくそうでしかない予期をなんども繰り返す。懲りずに。

ぴかぴかを繰り返すクリスマスツリーのまえで、なんども「まったく、まだ10月なのに!」と思いながら、裏腹に、もう冬ね、とも思う。似たようなやりかたで、信号が青に変わる一歩手前で、たとえば先ほど横断歩道をわたっていった少年らの思案を想像する。かぎりなくべらぼうに間違っていても、それは予期である以上その限りにおいて、間違いなく許されるのだった。許されてしまうのだった。

思い出す、totallyの好きなことといえばこんな始末のものばかりで、許されてしまうことたちが本領なのだった。過去も未来もなく、その状況が発生した瞬間ごとに、その分岐点で、否応なしに是認される事柄。もう、まったく! そういいながらも床に落ちた離乳食を拭うように。

totallyとわたしが出会ったときといえば、数多くあれど(そのたびごとにちがうtotallyに出会っているのだわたしたちは)(きっとtotallyにとってもそのたびごとに違うわたしだろう)、もう頭頂部が薄くなりかけている子供の手を握りながら包囲網を進む老婆の前だったはずだ。そのときtotallyは寛容な顔をして、やれやれ、と言いたげな眼差しで、わたしを見ていたのだ。

老婆の、その手を握り握られる子供の、その包囲網はぴかぴかの電飾だらけで、街はしあわせそうに輝きを振り撒くのだった。とくに懐かしくもない、高音部も低音部もすっかり綺麗に抜き取られた音楽がゆるやかに老婆と子供を狙撃し、そのふたりはびっこを引きながら進むしかないのだった、あいかわらずなおも。ふたりがかろうじて持ち合わせている照準といえばtotallyのそれ自身しかなくて、ついに子供が「あー」の、何度目の「あー」か、あーがあーと発されたそのときに、まったくもう、が飛び出して、もう全部が狙撃され、すぐに騒音のなかでふたりの姿はかき消え、あー、あー、のうちに、またぴかぴかが始まって、いつも通りだった。

そんなこんなで出会ったtotallyのその幼げな顔には(わたしが確認した限りでは)数十本の皺が刻まれている。自分でやったとtotallyは言うけれど、そのわりには顔の裏にまで皺が入っているのだから、わたしはまあ気付かないふりをしながら、まあね、と言う。なにがまあ、ね、なの、とtotallyは猜疑深く問う。気にしないで、あと、まあね、はまあね、で、まあ、ね、じゃあ意味が変わっちゃうでしょう、と返す。心底どうでもいいような顔をして、totallyは、そうですか、どうぞご自由に、とそれきり沈黙した。




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