見出し画像

海辺の猟師~海と山のはざまで~

『みやざき民俗』61号草稿


明治四十一年六月に柳田国男が椎葉村を訪れてから平成二十年で百年を迎えた。(註①)その調査をもとに明治四十二年三月に書かれた『後狩詞記』によって民俗学が山人、山村を解明することを中心として民俗学がすすめられる契機となった。(註②)による柳田の山人論分析などでこの時期の研究の流れは把握できよう)
 山村研究が山奥から始まったために、山村文化研究は、山村で中心に行われ、奥山にこそ古い文化が残されていると考えられ、宮崎県では椎葉村をはじめ、山村での調査ばかりが進められてきた。しかし、文化の伝播や交流は、常に流動的であり、とくに文化人類学や比較民俗学の成果により、中国大陸や朝鮮半島との文化交流が古代社会にあったことが次第に分かってきた。こうした異文化の交流は、海辺から始まり、様々な文化が生まれる始まりだったのではないか。
 宮崎には、日向神話が伝えられ、日向三代のひとつとして、「海幸山幸」の伝説が伝えられている。いわゆる海での漁師と山での猟師との交流である。海辺の猟師が次第に獲物を追い、すみかを求めて奥山に入ったと考えれば、現代の海辺の猟師に漁民との交流の経過が見て取れるのではないだろうか。
 本稿では、海辺の猟師の事例を検討することで、海と山の異文化交流の可能性を見いだしたい。


一、鰐塚山地の猟師

 海辺に近い猟師の実態としては、宮崎県南部にそびえる鰐塚山地の猟師について、『宮崎県史 民俗1』に山口保明氏が詳細にその猟を報告している(註③)。そこでは猟の方法についてが中心であるので、ここでは補足的な事例を紹介するにとどめる。

○潮嶽神社

 この地域の狩猟を海との関係で述べる場合、潮嶽神社が重要な意味を持つ。南那珂郡北郷町の潮嶽神社は、農海幸彦と山幸彦の争いの来歴にちなみ、弟山幸彦に追われた兄海幸彦が満潮に乗り、流れ着いたところが当地であることから「潮嶽」の地名がついたとされ、海幸・山幸の伝承を残して祭祀行事にも注目すべきものが多い。
 二月十一日の春まつりには、福種子おろしという神事があり、宮司の占った種籾を氏子が拾い集め、それを蒔くと豊作になるという。また地元の氏子から猪の頭部を献饌とする狩猟の信仰や漁神楽の奉納がある。「魚釣り舞」は県南地方で「鵜戸舞」と称され、魚のついた釣竿を採り、舞の途中に舞手による五回の唱儀があり、豊漁を喜ぶ所作が演じられ、後半で海幸山幸の来歴を語る長いことばがある。秋祭りは十一月十一日、神事の後、獅子舞が奉納される。海幸・山幸の化身と伝える獅子が「浜下り」の先導役をつとめる。別火禊斎した氏子の若者による、雄獅子・雌獅子の対舞いで「突け!突け!」の掛け声で天を突くように勇壮絢爛に舞うので、その衣装の動きから「昇り藤型」ともいう。

○川越忠親(ただちか)さん(昭和四年生まれ、北郷町郷之原)の話。

 十一月十五日(狩猟解禁日初日)には、潮嶽神社で、狩猟祈願祭が行われる。正・五・九月の十六日、年に三回、山の神祭りをする。山仕事をする人たちが責任者の家に集まる。神主を呼んで、祈願してもらい、直会をする。山の神への供え物について地元の猟師に聞いたところ、まず焼酎を供え、イノシシの尻尾は供えるが、オコゼの話は聞いたことがないという。猟の分け前は、昔と比べると平等になったという。昔は、勢子踏むと枝一本(セコンマエ)、犬を持つと一本(イヌンマエ)、仕留めると一本、受けると一人で半分ぐらいを持っていくもので、不平等な分け前であったという。

〇平沢三千万(みちま)さんの山の神に祟られた話。

昭和二十八年に部分林を設定するために下払いをしていた頃、自分で勝手に「大山の神」を石に祀った。そのことは特に誰に言うこともなく、山での作業もなくなり、そのままにしてすっかり忘れてしまっていた。ところが今から五、六年前、妻が病名不明の病気に罹ったという。病院に行っても原因が分からず、高熱が四、五日続いた。潮嶽神社の前宮司に見てもらったところ、「山の神の障りのようだ」として、山に祀ったままの山の神を思い出し、宮司を山まで連れて行ってお祓いをしてもらった。すると妻の熱はすぐ下がったという。それから毎年、潮嶽神社秋祭りでいただくタカビ(高幣)をあげ、魚(イワシ・イリコなど)・果物・米・塩・昆布・御神酒を供えている。現在では、そこに生えていた樫の木は当時直径五センチぐらいだったものが、今では二〇センチぐらいに育って「モリギ」になったと語った。モリギとはご神木とは別であるという。
 山の神は女性で、チンポを見せると喜んで猟を与えてくれるという。「猟があったときは、チンポを出して山ん神んまわりを踊りゃ、またくりゃっとよ。ほんとじゃが。」という。山の神は、女性であり、男性の陰部を見ると喜んで、次にも見たいので猟をくれるという。「山の神をまつらんでも、かみさん(妻)をまつりゃいっちゃ。」というものだった。小松山(標高九〇〇メートル以上)の頂上の神社には、木で作った陽物をかたどったものがたくさん供えてあるという。小松山は、標高九〇〇メートル以上で、車では途中までしか登れないという。
 「弓だち」といい、新しい猟場にはいるときには、新しく山の神を作るものであるという。二十歳頃から十年間、猟をしたが、止めたきっかけは、猟の最中に銃で人間を撃ってしまう事故が多発したからであったという。
 オコゼの話。オコゼを猟に持っていくと豊猟になると言われていた。「腰ん縛っちょかんとおらんごつなっとよ」。新聞紙にぐるぐるに巻いて、越しに巻き付けて持っていくものであった。絶対にはずなさない。しっかりと結んでおかないとすぐに無くなってしまう。山の神様がすぐに取っていくのだという。見せたりしてもいけないという。供えたりすればすぐ無くなる。家に帰ったら家の神棚にある山の神様の前に揃えておくという。「夜夢の中で、オコゼが明日はどこどこの場所に猪がかかっていると教えてくれるもんじゃった」という。オコゼには、赤と黒がいて、それぞれ一匹ずつ持つのがよいとされる。漁師も高く取り引きされるので、あまり分けてくれなかったという。川越さんは特に見知った漁師がいなかったので、油津の市場で購入していたという。生で買ったオコゼを持ち帰り、ユルリ(囲炉裏)の端に串刺しにして、ひぼかした。
 犬の話。猪にやられるような犬はだめな犬である。猪にやられた犬は家まで持ち帰って庭に埋めてあげる。犬は山にほったらかしにしたりするとバチかぶる。「犬は山の神のツケジメ(ツケシメ)じゃから、むちゃごろしはしちゃいかん」というものじゃった。犬や猫は祀ってはいけないというものだった。犬を首だけ出して土に埋めて、ヒダルくさせて、飯がわたらんようにして、何週間もしたときに、犬の首を鎌でかっきる。その血で「犬神」「インカメ」と書いて、犬の魂を操るという。「馬でも何でも噛み殺すっちゃが。」「行けと言うと必ず殺す」「犬神の筋の人は目の色が違うもんじゃ」といい、犬には死んでも線香なんかあげたり、祀ったりしてはいけないと言われていた。動物は川の近くに埋めて、川の流れに合わせて水に流されていくようにする。

○狩猟の名人・佐師徳被(さし・とくげさ)

 宿野集落には猟の名人がいたという。佐師武弘さんが本家であり、その自宅門口には、大きな記念碑が建立され、墓地の墓石には猟の光景が彫刻で描かれ、徳被氏の略歴が記されている。
・佐師家の記念碑
中央 「奉祝祭祀大山祇命安鎮座」
裏  「明治三十三年旧九月十六日建立 佐師徳被 年六十」
表台座「明治元年小東ニ新田之事業ヲ起工シ数年之後田地凡八反歩余ヲ開墾シ本年獅子記
    念碑ヲ建設スルト共ニ爰ニ合祀ス
                           明治三十三年旧九月十六日」

・佐師徳被之墓
故佐師徳被氏ハ、北郷村字宿野ニ生ル、十八才ノ時、藩主伊東公家禄米三石ヲ給フ、十九才ニシテ組長ヲ申付ケ教練ヲ命ゼラル、明治元年、会津戦争起リ、二月十一日油津ヨリ乗船ス、大坂ニ滞在スル三十余日、其后京都ニ條公ノ御門番ヲ命ゼラル、五月廿日甲府ニ赴キ居ルコト九十日余、此地ヨリ会津ニ出征シテ官軍大勝ス、后出羽ニ至リ連戦連勝シ、十二月廿八日帰郷ス、明治十年西南ノ役起リ、三月従軍ス、加久藤ヲ経テ弥部ニ至リ後延岡ニ出デ激戦三四回当時伍長在職中和睦トナル、仝年七月帰郷ス、是ヨリ先明治元年字小東ニ新田事業ヲ起シ、数年之後田地八九反歩ヲ得、時人之ヲ称ス、又元性射銃ノ技ニ長シ安政三年以来狩猟ヲ好ミ、明治三十三年迄猪鹿二百二頭ヲ得、依テ獲得紀念碑ヲ建設ス、其後又二三十頭ヲ得、終生業務ニ勉励シテ常ニ模範トナリ能ク家事ヲ整理ス、故ニ略歴ヲ録シテ子孫ニ伝フ、
 天保十二年二月二日生 長男佐師幸太郎大正十一年五月十二日卒 三男古市乙被
 旧四月十六日幸太郎ノ父行年八十二歳

二、青島の猟師

 平成十一年のある日、宮崎県総合博物館のリニューアルでお世話になっていた宮崎市の青島の鍛冶屋さんと話をしていると、「あそこん川越さんは山の神にオコゼを供えるとと」という言葉が気になり、川越幸男さんを訪ね、話を伺い、罠猟にも同行した。

表①:青島周辺の明治期の猪・鹿捕獲数(平部■南『日向地誌』)
集落名 物産・動物
鏡洲村 猪鹿類五六十頭、駒十余頭
加江田村 猪鹿三十頭、鰡二千尾、鰡児一万尾、鰻三十貫匁、鮒ノ類多シ
折生迫村 猪鹿二十頭、鱶三百尾、鰹三万五千尾、羽鰹三百尾、鰆五百尾、イラ■七百尾、赤目鯛七百五十尾、目鯛七百尾、小鯛三十万尾、鯵三十六万尾、蚫三万殻

 現在の青島という住所は、以前の折生迫村であり、青島漁港がある、漁業の盛んな地域である。表①に記したように『日向地誌』には、明治初年の物産が記されている(註④)。青島の近郊には、すぐに山が迫っており、そこでは豊富な猪鹿が獲れていたことが分かる。

 青島に住む川越幸男さん(昭和十三年生まれ)は、三代にわたっての猟師。祖父・忠良(明治二〇年頃の生まれ)、父・良男(明治四十年頃の生まれ)について鉄砲猟・ワナ猟のことを習った。猪が中心であった。鹿はこの一帯には少なく、ウサギや鳥を捕ることはなかった。釣りもしており、イカ曳きにも行く。猟期が三ヶ月になってから最高で七、八頭を捕った。
○祖父・ヨッサン
 祖父は、ヨッサンと呼ばれ、猟の名人であった。その頃はウサギのように猪が多くいるものだった。猟から帰ると、里に近いところの山の神の前(イボの神様がある場所)で、ヤホコといい、獲れた猪の数だけ鉄砲を空に撃って山の神に感謝した。その音を聞くと集落の女性たちが家に集まってきて、捕れた猪肉を買っていった。
 正・五・九月には、長友茂清さん(註⑤)を呼んで、山の神祭りをした。山の神は、午前中に祭りをしなければならなかった。現在は、鏡洲の川添さん、加江田の鈴木藤夫さんに拝んでもらっている。川越家には、祖父から代々口伝の狩猟祭文があるという。絶対に他言してはいけない。教えるときは猟を辞めるときだという。内容としては、山の神は家内(奥さん)のことだというようなものだという。山の神は女だといい、猪が捕れないときには、下半身(陽物)を見せると喜ぶといい、センズリをするともっと喜ぶという。
 祖父の頃には、猪三〇〇頭を取ると新しい山の神を作らねばならなかったという。捕った猪の数は帳面に記録し、猪の頭骨を飾ったりすることはなかった。三〇センチくらいの川原の丸い石を持って山へ行き、ちょうどよい場所を選んで祀った。文字も何も書かなかった。じさんは、山の中で妙な音がすると「山の神の声がする」と言っていた。「昔は、松明をつけて山をさるくもんじゃったから、暗い中ではいろんな音が聞こえちょった。わしらも変な音は聞こえたけど、山の神の声とは思わんかったもんね。」

○猟犬について
 鉄砲猟では犬が一番重要である。犬は常に放し飼いである。山で死んだ犬は、山で棚を作って葬るものである。現在でもそのようにしている。猪にやられた犬はほとんど即死してしまう。怪我が浅いときには、傷口に人間の手で触れないようにしてタオルなどを当てて、家に連れて帰り、医者に治療してもらう。人間の手で触れるとバイ菌が付いてしまうそうである。
 犬の子が多く産まれたときには、間引きをするが、その時には「山に捨てるもんじゃない。水神様にほたり投げるもんじゃ。」という。家で死んだ犬は庭などに埋めている。しかし、よい犬は最後まで人に迷惑をかけないといい、死を悟った犬は独りでに山に行って死ぬものだといわれていた。

○猟場名・タイモンコカシ
 昔、タイモンさんがなんぼ山へ行っても猪がとれん日が続いた。そんなある日家に帰って夢うつつで山の神さんがタイモンさんにどこどこの山へ行けとのお告げがあった。
 「モドリジシの足に罠を掛ければ確実」 モドリジシ(戻り猪)とは、餌を食べて帰るところの猪である。餌場に来るときには猪も警戒して、耳をぴくぴくして用心している。以前は、ニタバに夜行って、木の上に櫓を組んで、猪が来るのを待った。猪がやってきて体をこすりつけているところを鉄砲で撃ち殺した。

○山の神
 山の神は大山祇命一人であり、女性である。一方、海の神は、ヒコホホデミノミコトで、男性であり、青島神社に祀られている。山の神が祟りやすいという話は聞いたことがない。山の神の神事は加江田の鈴木藤夫さんが執り行っている。以前は長友茂清さんが行っていた。現在の供え物は、ナナダイ(御神酒・塩・水・米・野菜と海菜・頭付の魚・お菓子や果物)やキュウダイ(御神酒・塩・水・米・餅・野菜・海菜・頭付の魚・お菓子や果物)を供える。
 加江田では、オコゼを供えることは聞いたことがない。オコゼを供えることは青島周辺で行われていた習俗であるという。川越家では自分の家の山の神にオコゼを供えていた。正・五・九月の十六日の山の神の祭りの前、一週間から十日前頃に親しい漁師さんに頼んで捕っておいてもらうものだったという。オコゼは瀬につく魚であるため、網にかかることは少ない。一本釣りが盛んな頃にはよく掛かっていたが、最近は手釣りをしないのであまり獲れなくなったという。オコゼは漁期は決まっておらず年中捕れるという。オコゼは昭和五十年に供えたっきりであるという。山の神には、必ず頭付きの魚を供えるものであり、猟の度に魚を供えるものであった。魚がないときにはイリコでもいいので持っていくものであった。供えた魚が次の日に無くなっているときには「山の神様が召し上がられた」といい、猟があるとされた。しかし、そこに残っているときには猟がないとされた。山の神は女性なので、天神様を祭っている地区の女性が山の神を祭りに来ていたという。
 平成十三年の一月十六日の山の神祭りは、平成十二年の十二月中旬に前倒しで行ったという。
 山に泊まるときの作法は家によって違う。加江田では、柴を折って四ヶ所に立て、その区切られた中に寝泊まりするものであった。オサキには泊まることはできなかった。川越さんによると、昔は山に行くのに二時間かかっていた。そこから山に登るので、山に一泊することが多かった。泊まるのは谷間の水が近いところに泊まった。雑木を火で焚いてその上に寝ると朝まで暖かだった。味噌と米と塩(大粒の結晶)を持って山に入った。青島では昔塩焚きをしていた。トマイ袋で現金や品物と交換していた。

○カワウソ
 「カワウソを捕ると猪百頭分の値打ちがある」と、新宮けんいちさん(二反田)がよく語っていたという。どういう意味か分からない。カワウソが昔はいたのだろうという。ここでは河童の正体がカワウソであるということはない。青島では、河童のことをガーロという。子供の頃に、川にいつまでも浸かっているようだと、親に「川に引っ張り込まれるぞ」と叱られるものだった。子供の頃にはすでに漫画などで河童の絵を見ていたのでそういう姿だと思ってた。

○水神様
 水神様は「ちょっとしたことでも怒って祟るが、何はなくとも謝れ」と言われるもので、謝りさえすればすぐに許してくれる神様であるという。明見橋の袂に水神様は祀られているが、山の神と同様で、水神様は水のあるところならどこにでもいる。昔は井戸にも御幣を上げていた。氏神の御幣(コビ)は一尺二寸(宵月は一尺三寸)、水神は二尺四寸(宵月は二尺六寸)である。

○ワナ猟の実際
 八時三〇分。猟銃を持っていくが、これは昨年からのことであるという。昨年、罠に掛かっていた猪にとどめをさそうとしたとき、最後の力を振り絞ってワナを引きちぎって逃げだし、危うく怪我をしそうになったという。夏鹿は脂がのってうまいといい、米良あたりでは農家の人たちが罠を掛けて捕って食べていたという。内山の山の神にサカキ(小榊)と水をあげ、拝する。

○ワナ猟の道具
・ノコ 二つ準備していく。粗い目と細い目の二種類。
・穴掘り 地元の鍛冶屋に特注したもので、へら状のものと金槌状のものが両端に付いている。落とし穴を掘るのに使う。
・ペンチ 針金を結ぶのに使う。
・ハサミ(剪定鋏) 枝などを切るのに使う。
・イシノミ(石鑿) 仕掛けの杭を打つ穴をあける。
・ワイヤー切り 仕掛けのワイヤーを切る。
・針金 五~六寸の長さで、マッチ棒の軸ぐらいの太さの針金を20本くらい。
・スプリング グシになる木がないときに使用する。
・フミイタ(踏み板) 落とし穴の上にかぶせる。合板で作る。五寸×六寸五分(以前は一回り小さかった)。この形式は使い始めて三〇年ぐらいになる。それ以前は杉の板を二枚継ぎ合わせて使用した。
・チンコロ サカキやツバキの堅木を使う。強い紐を結びワイヤーを継ぐ。横棒に掛けるための引っかけを作ることで、小さな動物がかからないようにしてある。これを作らない猟師が多いが、そうすると小さい猪も他の動物もかかってしまい、再びワナを付け替えなくてはならない。目的はあくまでも大型の猪である。
・グシ(地割りともいう) サカキやツバキの堅木を使う。樫などは形が付いてしまい戻りが悪くなり、バネの機能が無くなるが、サカキやツバキは二、三ヶ月してもまっすぐに戻る。猟期の最初に掛けた罠が猟期最後の日に掛かったこともある。
・縦棒・横棒
・ヤマカラシ(今はドスという) 地元の鍛冶屋に特注で作ってもらう。柄と葉の間に丸い輪があり、どう猛な猪をしめるのに、二メートルくらいの堅木を差し込み使用する。

○イノシシの解体
 解体するとき、祖父・父は、猪の額、両耳の脇にドスを当てて、決まった祝詞をあげ、拝んでいた。幸男さんの代からしなくなった。猪をさばいて、すべてを分けて作業が済むと、肝臓を火であぶって、七切れ半に切って、串に刺し、適当な場所に刺して、山の神様に供え、御神酒をあげ、拝む。猪の鼻は、黒焼きにしてネブトができたときに患部に塗る。
 猪の尻尾は、黒焼きにしたものを服用すると、子供の寝小便をとめるのに効く。直会が終わるとみんなでそれを分けて食べる。

○猟師の売買
 鹿の角や猿の足の骨は、カツオの疑似餌の材料として重宝され、猟師にあげるものだった。海の漁師の釣り具を作る作業小屋には大きな鹿の角が一、二本置いてあるものだった。この他、猪のたてがみを革製品の革の穴通しに使う業者がいて高くで買ってくれたという。

01獲れたイノシシを自宅の庭に運び込む
02バーナーで毛を焼く
03焼いた毛を水道水で洗い流す
04解体2
05解体3
06吊り下げて肉を分ける
07肝臓を火であぶる
08肝臓を七切れ半に切り分ける。
09七切れ半に切った肝臓を串に刺し、適当な場所に刺して、山の神様に供え、御神酒をあげ、拝む。
10イノシシの肝
11イノシシの尻尾

以上、平成十二年に聞き取りした、北郷町宿野と宮崎市青島の猟師の事例を紹介した。まだまだ、宮崎県には調査されていない地域が多く、民俗学の残された課題にヒントを与える事例が収集可能である。

<註>

註① 江口司氏が百年を前にして、柳田の椎葉入りを再検証している。江口司著『柳田國男を歩く-肥後・奥日向路の旅』(現代書館、平成二〇年)
註② 例えば赤坂憲雄著『山の精神史』(小学館、一九九一)
註③ 『宮崎県史 民俗1』宮崎県、平成六年
註④ 明治初年のデータである。平部嶠南『日向地誌』青潮社、昭和五十一年。
註⑤ 『宮崎県史 資料編 民俗2』宮崎県、平成六年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?