真面目さは捨てて、気楽に歩こう。

今日も日記を。

感受性が強く不安を感じやすいことが社会生活に馴染めない原因だと、こないだ振り返った。それはじっくり振り返った上で色んな出来事に説明が付くことだったし、1つ自分が見えたことで安心感が生まれている。

でもそれだけじゃない気がして、毎日、自分はどうしたいか、どんな状態が幸せなのか、つらつらと思い悩んでいる。

その中で、

○正しさ、一般的職業人になるべきというプレッシャー

○自分の意思で生きることへの罪責感

が大きいと気が付いた。ちゃんと大学に行って定職について安定した仕事をして、結婚して母となって定年退職し、余生になってようやく好きなことをする。仕事は生活のためのもので楽しいものではない、生きるために働くんだというのが母の考えで、正社員となって1日8時間週5日働くという主流に交ざることが自立した大人だ、子どもが肉体労働より頭脳労働に就くことが誇りだという考えに押しつぶされていたのだと思う。いい人間であるというプレッシャーと演技でしかそうなれない自分の人間性にいつも足りなさを感じていた。その劣等感から、余計に正しさを求めるようになっていった。私自身の感情を優先することが許されないような苦しさだった。自分を否定されることに怯えて、社会にアピールしていく元気がなくなっていたのが去年のこと。今も、社会生活は怖い。

でも、生きることは義務ではないし、母の考えは生真面目で重たい。冒険や寄り道をして生きてきた人ではないから、不安定さに敏感なんだろうけれど。でも、不安定さ=不幸せではなくて、自分の意思と納得感を持って生きることが生きる幸せになるんだと思う。

問題は、就職の問題を全て前もって母に相談し、同意を得ないと行動を取れないのが自然であったことだ。事実もそうだが潜在意識でも自分の行動を自分だけの意思で決める自由がなく、母の思考と同化して、私の中にも変化を恐れる気持ちが染みついていたことだ。

心の底で固く縮こまっていた“私”の声が聞こえるようになったのは最近のこと。二ヶ月くらい、家では部屋に籠もって外での活動を生活の中心にすることで、意識を家族から切り離していた。

その間、私の中で、24歳で正社員じゃなく月に10万円くらいのアルバイト収入で実家暮らし。家でも一人籠もっているなんて駄目な生活!という社会全体から聞こえてくるような批判感情に苛まれた。

そんな自分は大事にする資格が無いんじゃないか、ばりばり働いていない自分を肯定できなくて、休みの日も気分が沈んで何もしないまま終わる。楽しむ心も、ワクワクした喜びも、収入の低い私は感じる資格がない気がしてならない。

でも人の物差しに合わせることに一生懸命になる必要はないんだろう。心の赴くままに、自分のペースで生きればいい、そう言い聞かせる作業?に入っている。

正解し続けなければいけないわけじゃない。賢くない冗談みたいな自分も肯定してみたい。心を楽にして、職業人として振る舞わなければという意識が強くて一線を引いた固い態度も、解きほぐしていけたら。

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