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鬱病者の軌跡と鬱病的気質

私は2019年夏に鬱病と診断され、その後一時入院もしましたが、基本的に通院治療を続けています。

発症時は、神経がむき出しで外気に晒されているように、僅かなストレスにも堪えられずに人と話すたびに涙が溢れていました。傷ついた言葉がリフレインして、頭の中で自分を傷つけ続けているようでした。また、胸が締め付けられるような強い不安に苛まれて、よく発作的にいのちの電話などに掛けていました。

その後就活を辞めて帰郷、鬱病診断時に受けた心理検査で発達障害の疑いがあり、精査するために紹介された大学病院に通うも、診察で普通に話すこともできない状態だったので「発達障害の診断の前に鬱病の治療をしましょう」ということで入院しました。毎回、自分で考えて決めたいけどどう考えたらいいのか分からなくて無思考に言われたままにしているのが、させられている感があって嫌だったのは別の話。

およそ三ヶ月入院し、翌春に退院、一ヶ月後地元の図書館でアルバイトを始め、働きながら司書資格を取得しました(1年後)。図書館で働いていたときは、「私はこんな単純作業に収まる人間じゃない」という理想と、その場で考えることができない頭の回転の悪さや司書の講義やテキストがよく理解できない理解力・記憶力の停止感という現実とのギャップを受け入れられず、焦り、自分はまだ普通じゃない、早く直さなきゃという気持ちが強かったです。

1年後、「単純作業以上のことがしたい」と思い、図書館を辞めて正規司書への就活に専念します。しかし、自分の目標を言語化したり面接で言うことを記憶したりすることが上手くできず、面接準備には長い時間を掛けましたが、結果は出ませんでした。思考や感情の言語化が上手くできなくてもともと人と話すのに不安があったのですが、面接を受けていくにつれて、「ああ!やっぱり私は思い込みではなく、実際に口頭で自分を表現するのが下手と評価されている」と思うようになり、自分は社会の中で活躍できないのではと自信を失っていきました(もともと過大評価な自信でしたが。昔から勉強の能力を褒められることが多かったので、自分は知的な仕事につかなければいけない、また活躍できるのはそういうところだと思っていました)。

就活を続けて半年、夏に正規司書の求人がストップしたタイミングで、人の中で働く免疫を保ち、収入も得るために地元の市役所で年末までの期間限定の契約で働き始めました。そこでは、仕事は易しいのですが、人の中にいることに不安があり、上手く言葉を発せないこともよくありました。その間も司書の面接は受けていましたが、具体的なことが話せず、自分がどこに向かっているのか足取りの不確かさに不安を感じていました。といいつつ、たいしたことのできない自分を受け入れてくれる両親がおり、いつも守られているような安心感もありました。両親がいついなくなるかもわからない、自立を急がなきゃという気持ちはなく、のほほんとしていました。自分の年齢のことも意識せず、何も考えずに働いて、ご飯を食べて動画を見ながら寝る。お花畑な世界でした。自分の能力に自信がなく、仕事ができるのか不安はあるけれど、ある程度社会は懐が深いという安心感も出てきていたのです。

結局仕事が決まらないまま契約期間を終え、年末に退職。1月から無職になり、初めは急に社会との繫がりが途切れたことで焦り、司書以外の仕事を模索していましたが、求人状況や能力的にどの仕事もできそうにないと落ち込み、寝込んでいたのが1月。家にいる生活に慣れ、不安感が減り、家事をするようになったのが2月。この頃は心の平穏が実現できていて、安心して毎日過ごしていました。働いていないのに食事をし、自分で買ったわけじゃない家の中で生きている罪悪感もなく、毎日家事ができて、それを助かると言ってくれる家族がいて、後はずっと休んでいられることに幸せを感じていました。そしたら、仕事探しを再開しようと思い、若者サポートステーションのカウンセラーとまた話すようになりました。外の人と話すようになり、自分の思考力のなさ、言葉が浮かぶスピードの遅さを感じ、精神的には落ち着いていても頭が鈍ったままだと気づきます。そこで、2月の終わりからは頭の働きを改善するために運動や読書を始めます。思考できないので手当たり次第でも、目に付いた本を読むようにしようと思い、パラパラ本を捲ったり、音読したり、日中に外を散歩したり、未知の場所に出かけるなど、生活に刺激を増やし始めて、今に至ります。

振り返ると、自分に求める高い理想とそれにそぐわない現実、正解のない中で自分で考えて答えを出していかないといけない環境が強い不安になっていたのだと思います。自分の感情や価値観が不明なまま、何をどう決めたらいいのか、人といても何を話していいのか、自分一人でいても何をすればいいのかわからなくなった大学時代。好きなものが語れて、趣味があって、変化していく周りと比べ、焦りが募っていました。大学生によくある悩みですが、耐えられなかったのは、年相応の精神的成長をしていなかったから。抑制していた部分もあるのですが、小さな頃から自分の感情の言語化は苦手でした。国語は得意で、文章を読解したりフォーマットに添った感想文を書くことはできたのですが、自分自身で何かを思うことも、何かを思ったときでもそれを言語化することもできないのを深く気にせず生きてきて、大学生で急に思考力・自分の考えを求められるようになり、大学での発表やアルバイト先では誰の庇護下にもない一個人として立つことが不安でした。積み上げてきた「自分」の核がないまま、自分の意思で選択し、問題を解決し、意見を出さないといけない。とても難しく、明確な答えのない自由すぎる世界が怖かった。年齢相応の積み上げてきた自我、精神的自立がないまま直面した意思決定の連続、仕事中に何が起こるかわからなくて不安なアルバイト、アルバイト先で掛けられるキツい言葉に精神を打ちのめされ、今まで認められてきた「勉強」が通用しない社会で生きていく自信がなくなり、好きだった和歌の勉強も頭に入らなくなっていきました。核となる自分がない私はぐらんぐらんに揺れて、倒れました。

この「自分の感情や価値観がわからないこと」「年齢に見合った自我・精神力が身についていないこと」「仕事の能力を否定され、勉学にも自信を失ったこと」が、私の場合、鬱病の原因だった気がします。自分の意思で選択し、責任も自由も自分一人にかかっている中で自分の足で立ち、自分の世界を作っていく段階に直面して、対応できませんでした。それなのに進んでいく時間、迫ってくる就職活動の時期に焦り、精神のバランスを崩していきました。今まで、主治医の先生や両親をはじめ色々な人の意見を聞いてきましたが、どの意見も正しいようにも違うようにも思えて、どう決めたらいいのかわかりませんでした。自分の意思や思考が見えていなかったんですね。

徐々に病んでいったので正確な発病時期はわかりませんが、実は、回復しているのかも明確ではありません。私は元から思考や感情がよく働いていないので、感情の波がなくなっても鬱病のような頭の働かなさがあるのです。昔から本心から笑ったこともないし、自分の物の感じ方や性格もわからないまま、義務をこなしているのが自分の存在意義のように感じていました。窮屈で堅苦しい生き方だったし、無思考、無批判に求められることをしていたような気がします。記憶力は鬱病の前後で大きく違うのですが、元から自分の感情や意思を自覚してそれを表現したり、物事を思考して選択することもできていませんでした。鬱病的気質があり、感情が動いていた頃がないのです。なので、元に戻っても暗いままで、回復しても何をすればいいのかわかりません。楽しい気持ちって何?という感覚です。ただ、もう立派な大人とみられる中で自分の意思で自由も責任も抱えて生きていくのは怖いけれど、今のように人ごとのように時間が過ぎていき年齢を重ねていくのはもっと怖い。「自分ごと」として人生を実感して生きていけるようになりたい。

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