消せない気持ち

古典が好きだ。古い書物が好きだ。それらに囲まれて、日がな一日、遠い時代の言葉に向き合って過ごしたい。

わずかに残った書物が伝える、静かに輝く言葉の断片。見え隠れする心。

用例を探し、作者を知り、実像に近づいていく感覚。

一日資料を読んでいたら日が暮れた、あの研究室での景色。


どれもこれも、忘れられない鮮烈な記憶である。


学生の頃から鬱っぽさはありながらも何とかやってこれたのは、古典に触れている時間の喜びがあったからだ。研究の道と就職と悩んで、“可能性の低い文学者を目指すのに時間を割くより就職しよう、でも就職するにしても少しでも近い仕事を”と考え、古典籍の保存と修復、公開をしている国会図書館や民間企業を目指した。残念ながらそれが叶わなかったとき八方から堅実な道を選べと責められて、私は道が見えなくなってしまった。

子どもの頃からの「良い子でいないといけない」「常に正しくあらなければいけない」という束縛感が、思うままの道を選択する枷となった。

院に進学せず就職を選んだのはその弱さの表れである。

でもその中で自己実現を目指した。それが叶わず、落ち込んでいたときに家族から「進路の選択を間違えたんだ」「周りの意見を聞かないで失敗した」と否定され、新しく行動を起こすのが怖くなってしまったこと、仕事観を強要されたことが、絶望感となった。家族は応援する存在ではなく、行動を監視して評価する存在だった。ずっと優等生の演技をしてきたけど、自分で選択しようとすると、そしてその選択が結果に繋がらなかったとき、多方から否定されたことがショックで、失敗するとすぐに槍玉に挙げられる中で、これから何かを目指したり頑張ることが怖くなって、もう生きていたくなくなった。


鬱で入院してからも、発達障害を頑なに認めない母を見て、どこまでもこの人は優れた部分しか受け入れられないのだなと諦めた。本当は、自分の幸せを応援して、失敗しても帰る場所として信頼できる家族が欲しかった。否定を恐れ、鎧を被ってしか人と接することができない自分が悲しくて、人間不信を染み込ませた両親への恨みも正直消えない。そんな両親に頼って暮らすしかない今の自分も、言葉ではなく物を与えることしかされず頼れない母親への苛立ち、物理的には不自由なく整えられていることで愛情はあるのだろう、それを受け取らないといけないという無言の圧力と求めているのはそんなことではないと感じる罪悪感とがごっちゃになって、自分の気持ちをどう決着づけたらいいかわからないし両親と話してもまた話は噛み合わないだろうという諦めとで、表面的に平和に接している。でも今も変わらず、信頼はできていない。気持ちを言葉に出せないモヤモヤが重たく、寝込むこともある。


でも、バイト先で色んな人に出会い、母のように収入ではなく興味で仕事を選んでいる人たちの自然体で喜びのある生き方を見て、私は間違っていなかったと思えた。(幼い頃に母から「我が強い」と性格を表現されたことがトラウマで)母に否定されても自分の気持ちを通すことに不安があったが、私の中で幼児の記憶を繰り返し思い出すことで潜在意識にまで刷り込ませてある種の洗脳みたいになっていたのだろう。母は「周りの反対で止めるくらいならその程度」とまた私の問題と決めつけたが、母の方こそ私の人生に干渉しすぎだった。自分のことを自分で決めるのを自己中とか勝手と言われていなかったら、私だって心折れなかった。

母の目を気にしなくなるには、鬱になって記憶を閉ざし、色んな人と出会い、縛られた考えを壊していく時間が必要だったんだろう。

今は、自分の気持ちに従って生きることも、付き合う人も時間の使い方も自分で選択することも、まだ完全にではないけど許せるようになってきた。常に正しい性格であろうとする必要もないし、失敗しても目指した時間は無駄じゃないし、大人になるということは自分を抑えるということでもないんだと思えるようになった。


結局、周りの価値観を意識しすぎたことが行き詰まる原因だった。発達障害だって、不登校をしたときも親は私の気持ちは聞かず「学校の授業に付いていけなくなる」とレールから外れないことばかりを求めたけど、そんな風に足並みを揃えることに拘っても世の中に縛られるようになって、幸せな生き方から遠ざかっていく。

親が一緒に模索してくれなかったのは今でも悲しい、でも偶像である一般像に合わせていくのではなく、私は私に合う生き方を求めるのは当然の権利なんだ。引け目を感じる必要はない。


話がだいぶ脱線してしまった。

要するに、最近、自分の人生を評価する目への意識、不安が和らいだことで、リラックスできるようになった。そうして戻ってくるのは古典への愛で、離れようとしても結局それ以外に妥協できないのだということ。私にとって幸せな時間の使い方を尊重するなら、古典との関わりを絶ってはいけない。古典と関わる道は、図書館、研究所、古美術商、古典の先生、色々あるが、今は古典籍の主題司書を目指そうと思う。営利的ではない方法で古典を学び、実物を目にする機会も得られるから。狭き門は変わらない。でも、努力し続けたら、今の図書館でそうだったように、人との出会いが広がっていき道は開かれていくはずだ。

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