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『もう死んでいる十二人の女たちと』 パク・ソルメ (著), 斎藤 真理子 (訳) 今年上半期、最大の収穫。心の中の本当を引き出すために、心をゆるゆるに揺さぶる。そういう思考のスタイルが、そのまま文体になっている。こういう小説を読みたかったのだ。

『もう死んでいる十二人の女たちと』 (エクス・リブリス) 単行本 – 2021/2/23 パク・ソルメ (著), 斎藤 真理子 (翻訳)


Amazon内容紹介、長いので冒頭部分

「韓国で最も独創的な問題作を書く新鋭作家のベスト版短篇小説集
韓国文学の新しい可能性を担う作家として注目され続ける著者の、10年の軌跡を網羅した日本版オリジナル編集による短篇小説集。本邦初の書籍化。
パク・ソルメは1985年光州生まれの女性作家。福島第一原発事故が起きた際、大きなショックを受けたという。原発事故に触発され、韓国でいち早く創作した作家がパク・ソルメである。光州事件や女性殺人事件などが起きた〈場所〉とそこに流れる〈時間〉と自身との〈距離〉を慎重に推し量りながら、独創的で幻想的な物語を紡ぐ全8篇。全篇にわたり、移動しながら思索し、逡巡を重ねて「本当のこと」を凝視しようとする姿勢が貫かれ、ときおり実感に満ちた言葉が溢れ出る。描かれる若者たちは独特の浮遊感と実在感を放つ。」


ここから僕の感想。


 やばーい。今年も半年過ぎて、だいぶいろいろ小説を読んだが、これは『ミルクマン』と並ぶ、衝撃作。こういう本と出会うから、もう、いや、ほんとに凄いな。


 二編、いちばん初めと一番最後が、女性連続殺人事件に関わるもの。三編が原発事故に関わるもの。(福島原発と、釜山郊外にある古里原発の。)。光州事件に関するものが一篇。作者は光州市の生まれ育ちだという。事件の後の生まれだが。というと、「社会派の真面目な小説か」と思うかもしれないが、いや、そうかもしれないが、全然、違う。文体が、ものすごく新しい。現実的な小説と、マジックリアリズムのような、幻想的な設定のものとが混在する。小説は自由で力があるのだ、ということを、これほど強烈に思い知らされる体験は、あまりない。


 原発事故について、僕はずいぶん考えてきたけれど、この本所収の「冬のまなざし」という小説の、この部分を読んで、ああ、僕が感じていたのはこういうことだ、と思った。


 まず、実際には、古里原発では福島事故以前にも以降も、何度も繰り返し、小さな事故が起きているが、チェルノブイリや福島のような大規模な事故は起きていない。この小説の設定は、古里原発で、福島のような大きな事故が起きて、隣接する釜山の、高級住宅地として栄えた「海雲台」という場所も人が住めなくなっているという設定。福島の事故から受けた衝撃を、韓国の古里原発に投影させて、想像し創造された小説のようなのだが。


 小説中、その古里原発大事故についてのドキュメンタリー映画を、主人公は観る。監督が来ている小さな上映会のような場所で、上映後、監督とのディスカッションがある。といっても、五人くらいしか参加者はいないのだが。


「わたしはこの映画から特に何の印象も受けなかった・(中略) 古里原発事故直後に溢れ返った古里映画の一つという程度の感じだったから。つまり、残っている人々、古里という、あるいは海雲台や釜山という空間に残った人たちの記憶と傷跡を語る映画たちだ。古里原発事故以来、そういう映画は規模の大小を問わず何十本も続々と作られて、当然といわんばかりに各種の海外映画祭に招待され、いくつかの賞を取ったりしたが、まあ、とにかくその日見た映画も、部分部分に興味深い点はあったけど、何か強烈な力や特別な魅力があったわけではなかった。私はむしろ、韓国水力原子力公社を爆破して、そこの幹部たちを拉致して人質劇をくり広げるようなありえない映画を見たかった。幹部の頭一つに原子炉を一つずつ賭けて一時間対峙するとか、そんな映画。人質の家の庭にウラニウムを埋めちゃって、ねまき姿のその人を核廃棄物処理作業員として働かせるような映画。初めから終わりまでギャングが暗躍するような映画。私はそういうのが見たかった。
「わたしにはほんとに得意なことがあるとすれば、誰よりも自信があることがあるとすれば、こういう場所では絶対に禁句だよねということでもはっきり言えること。私のいちばんかっこ悪いところはそんな自分に自負があること。(中略)映画、どうでしたかと照れくさそうに尋ねる監督に答える。言いうること、だが誰も言わないことを誠実に言い、それを休みなく立て続けに言ったので監督は口数が減り、私はビールを一杯だけ飲み、誰にも引きとめられることなく席を立った。」


そのあとで、映画の挿入歌を歌ったフォーク歌手の男性と、「僕はあの監督、きれいごとすぎるかなって」と意気投合して、しばらく一緒に過ごす、と話は展開していくのだが。


「わたしを揺さぶりながら。君が見たいものはそれじゃ何だと、揺さぶりながら尋ねた。私は、私は、私がほんとに見たいのは、と揺れながらつぶやいた。」


 女性の連続殺人事件も、光州事件も、原発事故も、「こういう態度で、こう語られなければならない」と言う真面目なきれいごとがあって、そこから外れるとふざけているとか不謹慎だとか、そういうことへの自己規制が何かを表現しようとするときに必ずかかってきて、それは他者からだけではなく、自分の中に自動的にかかってきて、しかしたとえばそういうことと自分の間には、それぞれの時間的空間的心理的距離が固有にあって、ほんとうの怒りとか本当の気持ちとかほんとうに見たいもの、本当に犯人に対して言いたいことやりたいこと、そういうのは、そういう自分を内から規制するものを、ゆさぶってゆるゆるにして、自分の心が感じていること本当に見たいものをはっきりと掴みださないとそれはいけないことで。


 この本に収録されたどの小説でも、論理的ではなくても、本当にそういう風に感じたり理解したり欲望したりする、そういう心の在り方、思考のスタイルが、そのまま文章のスタイルになっている。そこに圧倒的な新しさと、読むことの快感があるのだよなあ。


 あと、福島原発のことだけじゃなく、たいていの小説に、日本の何かが、例えば京都に旅行したときのエピソードとか、別に特別なこととしてではなく、ちょっとだけ出てきたりする。ああ、そういうふうに、韓国は日本とお隣さんなんだよな、という感じがしてくる。日本の中の韓国を嫌う人、韓国の中の日本を嫌う人、そういうことは全然書かれなくて、かといって、すごく大好きとかいうのでもなくて、1985年生まれの今の韓国の小説家が、自分の生活や体験に素直に小説を書いたときに、それくらいの感じで日本のことが混じるというのは、そうなんだろうなあと思う。世界の文学をいろいろ読んでいて、韓国の小説を読むと、やはり、隣の国なんだよな、違うところもあるけれど、分かることも、多くあるよな。そんなことも思いました。


 いや、これは、普段小説を読まない人も、韓国のことが、好きな人も嫌いな人も、お隣の国の、若い女性作家の目を通して、ものすごく新鮮に、いろんなことを感じたり考えたりさせられる、今年上半期、最大の収穫のひとつだな。超・おすすめ。


 翻訳をした斎藤真理子さん。巻末解説もていねいだが、何より、この画期的文体を、きっと韓国語としても画期的なんだろう感じを、よくぞ、こんな素晴らしい日本語に翻訳してくれて、もう、ありがとう、百回言いたい。

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